伝記
イブン・ハルドゥーンは、中世のイスラーム世界を代表する歴史家、思想家、政治家で、イスラーム世界最大の学者とも呼ばれる。本名はアブー・ザイド・アブドゥッラフマーン・イブン・ムハンマド・イブン・ハルドゥーンといい、「イブン・ハルドゥーン」は直訳すれば「ハルドゥーンの息子」だが、アンダルスに多かった家名の表し方で、実際にはハルドゥーン家の者を意味する。祖先は南アラビアのハドラマウト出身のアラブ人で、8世紀にイベリア半島遠征に従軍して以来アンダルスに定住し、9世紀にはセビリアの有力貴族となった。1248年のセビリア陥落の直前に一族はチュニスへ亡命し、ハフス朝の庇護を受けた。祖父は高位への登用を断って神秘主義に没頭し、父ムハンマドも学問に打ち込んだ。
1332年5月27日にチュニスで生まれ、少年時代はチュニスの学者たちからイスラーム法学、伝承学、哲学、作詩などを学んだ。1347年にチュニスがマリーン朝のスルタン・アブル・ハサンに占領されると、モロッコから随行した学者たちと出会い、とりわけ哲学者アービリーに師事した。読書会でイブン・スィーナーやイブン・ルシュドらの著書を読み、優れた理解力を示したという。1349年にはペストがチュニスを襲い、多くの教師と両親が病に倒れた。1351年4月には『宗教学概論要説』を完成させている。
師のもとでの学びを終えたのち、19歳でハフス朝の国璽書記官に任じられた。しかし1352年の春、反乱鎮圧の従軍中にひそかに軍を抜け出してフェズへ向かい、北アフリカ各地を渡り歩いた。のちマリーン朝のスルタン・アブー・イナーンに迎えられて書記官となったが、1356年の終わりにハフス朝の王族とベジャーヤ奪回の密約を結んだことが露見して投獄され、1年9か月を獄中で過ごした。約200行の詩を書いて慈悲を乞い、釈放を約束された。アブー・イナーンは帰還後に急逝し、ハルドゥーンは宰相ハサン・ブン・アマルによって他の囚人とともに釈放され、接収された財産も返された。その後、友人の法学者イブン・マルズークの誘いを受けて王族や将軍を説得し、1359年7月12日にアブー・サーリムがスルタンに即位すると、その功で国璽尚書となった。1361年にクーデターでアブー・サーリムが殺されたのちもフェズにとどまったが、1362年にはかつて交友のあったナスル朝のムハンマド5世を頼ってグラナダへ渡り、その寵臣としてカスティーリャ王国への使節も務めた。宰相イブン・アル=ハティーブとの間に亀裂が生じて退去を余儀なくされ、ベジャーヤでも執権として重んじられたが、戦乱で政権が壊滅し、街を敵軍に明け渡した。この転変の連続が後の思想に大きな影響を及ぼしたとされる。
政治の表舞台を退いてからは歴史書『イバルの書』を著し、その序論『歴史序説』でアサビーヤ論を展開して王朝興亡の要因を論じた。カイロへ移住して活発な講演を行い、マムルーク朝のスルタン・バルクークの信任を得て多くの学院で教え、マーリク派の大法官に任じられた。ティムールのシリア遠征でダマスクスの包囲に巻き込まれた際は、名声を聞いたティムールに陣中へ招かれ、弁舌を振るったという。エジプトに戻って何度か大法官を務め、六度目の就任の直後に病を得て、1406年3月17日に没した。科学史家は彼をマキャベリやヴィーコ、コントらの先駆とした。トインビーは彼をトゥキディデスやマキャベリと並ぶアラブの天才と評し、その肖像は2006年までチュニジアの10ディナール紙幣に用いられた。
同じ年に亡くなった人物
- ヴィルヘルム (オーストリア公) (1406年没)
- インノケンティウス7世 (ローマ教皇) (1406年没)
- ジャンヌ (ブラバント女公) (1406年没)
- ロバート3世 (スコットランド王) (1406年没)
- エンリケ3世 (カスティーリャ王) (1406年没)
同じ地域に関係する人物
- Kujuk (1345年没)
- Soad Hosny (2001年没)
- ナースィル・ムハンマド (1341年没)
- イッズッディーン・アイバク (1257年没)
- テオドール・ビルハルツ (1862年没)