伝記
エヴドキヤ・ドミトリエヴナは、モスクワ大公ドミトリー・ドンスコイの妃である。ニジニ・ノヴゴロド・スーズダリ大公ドミトリーの娘で、1353年に生まれた。母はロストフ公の娘ヴァシリサである。兄弟に、のちのシュイスキー家の祖となるヴァシリーがいる。母方の祖母マリヤは、モスクワ大公イヴァン1世の娘であった。晩年に修道女となり、エヴフロシニヤの名でも知られる。
1366年、父ドミトリーの手で、幼くしてモスクワ大公位を継いでいたドミトリーとの結婚が成立した。この結婚は、ニジニ・ノヴゴロド・スーズダリ大公国とモスクワ大公国との紛争を終わらせるためのものであった。エヴドキヤは13歳、ドミトリーは15歳で、式は1月18日にコロムナのクレムリ内の復活教会で行われた。「ルーシの地に喜ばれた」と記され、幸せな結婚生活を送ったとされる。この夫婦は十二人もの子をもうけた。ヴァシリー1世、ユーリー、アンドレイ、ピョートル、コンスタンチンらの息子と、ソフィヤ、マリヤ、アナスタシヤ、アンナらの娘がいる。エヴドキヤはキエフ府主教アレクセイから強い影響を受けた。夫のクリコヴォの戦いでの勝利を記念して、大天使ミハイルのイコンを作らせ、これはのちにクレムリの大天使大聖堂の守護のイコンとなった。エヴドキヤの提言で民兵隊が組織され、勝利を祝う荘厳な式が開かれたともいう。1382年、トクタミシュ・ハンの軍がモスクワに迫ったとき、エヴドキヤは夫の不在のなかモスクワにとどまった。息子アンドレイが生まれたあと、モスクワを離れようとしたが、市民に引き止められ、長い交渉のすえ許された。この侵攻で壊されたペレスラヴリ・ザレスキーのゴリツキー修道院を、のちに自費で再建している。
1387年には、モスクワのクレムリのフロロフ塔(スパスカヤ塔)のそばに、主の昇天修道院を創設した。1389年5月19日、ドミトリーが38歳で亡くなった。二人は22年間をともに過ごした。ドミトリーの遺言状には、息子たちに母エヴドキヤの意見を尊重して従うよう諭した記述があり、『大公ドミトリー・イヴァノヴィチ聖人伝』には、夫の死にあたってのエヴドキヤの嘆きが記されている。遺言によって、エヴドキヤは30以上のヴォロスチとスロボダ、20以上のセロを受け取った。そのうち15のヴォロスチとスロボダ、14のセロは完全な私領で、政治的にも経済的にも自立できるようになった。1393年には、聖母誕生教会を建てた。現存するモスクワ最古の建物とされる。伝承では、1395年にティムールがロシア南部へ侵入した際、ウラジーミルの聖母のイコンをモスクワに移させた。
1407年5月17日、エヴドキヤは引退して主の昇天修道院に入り、エヴフロシニヤの名を得た。数日後には、木造であった修道院の大聖堂を、石造りに改築するよう命じた。しかし7月7日に亡くなり、建築中の大聖堂に葬られた。修道院は1917年の十月革命で大きく損壊し、1929年に取り壊された。遺骨は、ほかの公や皇帝の妃の遺骨とともに、大天使大聖堂の地下室に移された。2000年の解析では、身長は約1.55メートル、死亡時の年齢は50歳から55歳であった。ロシア正教会は聖人として認め、没後600年を記念した2007年には、モスクワ大公妃聖エヴフロシニヤ勲章が制定された。
同じ年に亡くなった人物
- ヴィルヘルム1世 (マイセン辺境伯) (1407年没)
- イサベル・デ・マヨルカ (1407年没)
- アンドロニコス5世パレオロゴス (1407年没)
- ルイ・ド・ヴァロワ (オルレアン公) (1407年没)
- テオドロス1世パレオロゴス (1407年没)
同じ地域に関係する人物
- Lazar Lagin (1979年没)
- ボリス・リヴァノフ (1972年没)
- ボリス・アサフィエフ (1949年没)
- グリゴリー・オルジョニキーゼ (1937年没)
- アルメン・ジガルハンヤン (2020年没)