HISTORICAL PERSON · 1407年没

テオドロス1世パレオロゴス

東ローマ皇帝ヨハネス5世の末子で、1382年からモレアス専制公を務めた。従兄弟の叛乱や地元有力者、オスマン軍の攻撃を乗り越えたが、1407年にミストラスで修道士として死去した。

生涯
1407年没
死亡地
ギリシャ共和国(ペロポネソス / ミストラス)
出生地
トルコ共和国(コンスタンティノープル)
出典
世界地図
ギリシャ共和国(ペロポネソス)

伝記

テオドロス1世パレオロゴスは、1355年ごろに生まれた東ローマ帝国の皇族で、モレアス専制公を務めた人物である。皇帝ヨハネス5世パレオロゴスと皇后ヘレネ・カンタクゼネの第4子で末子にあたり、兄にマヌエル2世パレオロゴスがいる。若いころはコンスタンティノポリスの父のもとで過ごし、1370年代には、兄のマヌエルに代わってテッサロニキの統治にあたった。父と兄のマヌエルに常に忠実であり、1376年に長兄のアンドロニコス4世がトルコ人やジェノヴァ人の助けでコンスタンティノポリスを奪うと、父や兄とともにアネマス牢獄に投獄された。牢獄には3年間とどまり、1379年に父と兄弟たちは脱出して、コンスタンティノポリスを取り戻した。

その後、一族の間で和平が成り、1380年に子のないままモレアス専制公マヌエル・カンタクゼノスが亡くなった。その後継者として、テオドロスは1382年にモレアス専制公領に派遣された。しかしその着任は、従兄弟のデメトリオス・カンタクゼノスの反乱に妨げられた。デメトリオスはラテン人とトルコ人の傭兵を擁し、戦いは激しかったが、1384年に急死して終わった。事態を収めて統治に就いたものの、遠い首都から送られてきたテオドロスに対する土地の有力者たちの反発は根強かった。なかでもモネンヴァシアに拠点を持つパウロス・マモナスは、ヴェネツィア共和国やオスマン帝国と独自に外交を結び、とくにオスマンの軍事力を背景に、帝国からの離反をはかった。

1394年、テオドロスが強硬な手段でマモナスをモネンヴァシアから追放すると、オスマンの君主バヤズィト1世はエヴレノズ・ベイやヤクブ・パシャらの将軍を送り、アカイア公ペドロ・ボルド・デ・サン・スペランとも同盟して、テオドロスを挟み撃ちにした。配下の武将の働きで、テオドロスは辛うじてこの危機を乗り切った。しかし、専制公領と、1397年以降オスマン軍の封鎖が続いた首都の状況に絶望し、聖ヨハネ騎士団に専制公領の売却を持ちかけるまでになった。これにミストラスの市民が反発し、府主教を指導者にして騎士団による接収を拒んだため、売却はあきらめられ、テオドロスも考えを改めて統治に戻った。

テオドロスは、フィレンツェ出身のアテネ公ネリオ1世アチャイウォリの娘バルトロメアと結婚し、その嫁資としてコリントスと周辺の地域を得た。2人の間に子はなく、兄マヌエル2世は、自分の第二子のテオドロス2世パレオロゴスをその後任とした。テオドロスは1407年6月24日、修道士テオドレトスとしてミストラスで亡くなった。兄のマヌエル2世はその死を悼み、『弟テオドロスへの追悼演説』を残した。

同じ年に亡くなった人物

同じ地域に関係する人物