伝記
レイフ・ヴォーン・ウィリアムズは、1872年10月12日にイングランドのグロスターシャー州ダウンアンプニーで生まれ、1958年8月26日にロンドンで没した作曲家である。名のラルフは通常「ラルフ」と読むが、本人が古風な発音の「レイフ」にこだわったため、この表記が用いられる。民謡の採集や教会音楽の研究を通して独自の作風を確立し、イギリス人による音楽の復興の礎を築いた。
父アーサーは聖公会の教区の代理牧師で、1875年、ヴォーン・ウィリアムズが2歳のときに亡くなった。母マーガレット・スーザンは旧姓をウェッジウッドといい、陶器職人ジョサイア・ウェッジウッドの曾孫にあたる。母に連れられて、サリー州の景勝地にある実家のレイス・ヒル・プレイスへ移り、そこで育った。ダーウィン家とも縁続きで、チャールズ・ダーウィンは大おじであった。知的で恵まれた階級に生まれながら、生涯、民主・平等の理想のために活動したという。6歳のころ叔母のソフィーからピアノと作曲の手ほどきを受け、最初の作品として4小節の『ロビンの巣』を書いた。7歳でヴァイオリンを習い始め、14歳でチャーターハウス校に通った。のち王立音楽大学でスタンフォードに師事し、ケンブリッジ大学のトリニティ・カレッジで歴史と音楽を学んで、1894年に音楽の学士、1895年に文学の学士を得た。王立音楽大学に戻ってからはパリーの下で作曲を学んだ。1895年に知り合ったグスターヴ・ホルストとは、互いの作曲中の作品を読み合って批評する「演習日」を重ねる仲となった。
作曲家としては遅咲きで、最初に出版された歌曲が世に出たときには30歳になっていた。1897年にアデリーン・フィッシャーと結婚し、ベルリンではブルッフの指導を受けた。1907年から翌年にかけてパリで3か月間ラヴェルに師事し、管弦楽の扱いが長足の進歩を遂げたとされる。1904年には、地方の民謡やキャロルが識字率の向上と印刷楽譜の普及のため急速に失われつつあることに気づき、自ら田舎を訪ね歩いて、その多くを編曲し保存した。こうした音楽の美しさに魅了され、自作にも歌や旋律の一部を取り入れた。後に英国民族舞踊民謡協会の会長を務めている。1905年にはレイス・ヒル音楽祭の第1回演奏会を指揮し、1953年まで指揮者を務めた。1910年に『タリスの主題による幻想曲』と『海の交響曲』の初演を指揮して、初めて大きな成功を収め、1914年に『ロンドン交響曲』が披露されると、さらに名声を高めた。
第一次世界大戦が始まったとき41歳だったが、兵役を免れられたにもかかわらず志願して入隊し、担架兵などとして悲惨な日々を過ごした。のち少尉に任命され、砲台の指揮をとった。砲火の爆音に長くさらされたことが、晩年に深刻になった難聴のきっかけになったといわれる。1919年に王立音楽大学の作曲科教授に就任した。1922年に『田園交響曲』が初演された。1935年にはBBC交響楽団により、鋭い不協和音と緊張にみちた『交響曲第4番』が初演され、同じ年にメリット勲章を受けた。1943年には第5番を、作曲者自身の指揮で演奏した。1946年の第6番は大きな成功を収めた。ホルストの死は1934年で、妻のアデリーンは1951年に亡くなり、1953年にアーシュラ・ウッドと再婚した。最後の第9番は1958年に初演され、その年の8月26日、心臓発作で世を去った。
同じ年に亡くなった人物
- ビルゲル・エリクセン (1958年没)
- ジョージ・ジーン・ネーサン (1958年没)
- ロバート・リンゼイ (1958年没)
- ウラジーミル・オーブルチェフ (1958年没)
- ロジェ・マルタン・デュ・ガール (1958年没)
同じ地域に関係する人物
- ウィリアム・スミス (辞書編集者) (1893年没)
- ネヴィル・マリナー (2016年没)
- ジョージ・イヴリン・ハッチンソン (1991年没)
- トーマス・ウィリス (1675年没)
- リチャード・アディンセル (1977年没)