HISTORICAL PERSON · 1958年没

ロジェ・マルタン・デュ・ガール

フランスの小説家で戯曲も書いた。代表作は『チボー家の人々』で、1937年に第7部『1914年夏』などによりノーベル文学賞を受賞した。

生涯
1958年没
死亡地
フランス共和国(オルヌ県 / Chateau du Tertre)
出生地
フランス共和国(ヌイイ=シュル=セーヌ)
出典
世界地図
フランス共和国(オルヌ県)

伝記

ロジェ・マルタン・デュ・ガールは、1881年3月23日にパリに接するヌイイ=シュル=セーヌで生まれたフランスの小説家である。法曹に携わる古いブルジョワ家系の出で、父ポールは法曹に携わり、母はマドレーヌ・ヴィミーといった。フェヌロン中学、コンドルセ高等中学校、ジャンソン・ド・サイ高等中学に学び、成績はふるわず、授業より読書を好んだという。同窓には、のちに劇場を興すジャック・コポーや、出版人となるガストン・ガリマールがいた。10歳のころ、年上の友人の詩劇に触れて最初の美的な衝撃を受け、以後はノートに詩を書きつけていたが、17歳のときに読んだトルストイの『戦争と平和』で文学に開眼した。ソルボンヌの文学部に進んだが試験に失敗し、国立古文書学校に転じて考証学を学んだ。兵役による一年の中断を挟みながら、ジェミエージュ僧院の遺跡に関する論文を書いて、1905年に卒業した。

1906年、25歳でエレーヌ・フーコーと結婚し、翌年に一女をもうけた。この頃から本格的に小説を書き始め、1908年に若者の内面の苦悩を描いた『生成』を自費で出版した。1913年の『ジャン・バロワ』は、ドレフュス事件を背景に思想的、信仰的な不安をつづった作品で、ほかの出版社に断られた原稿がガリマールからジッドへと渡って、『新フランス評論』の出版社から刊行された。これが彼の名を広め、ジッドとの親交のきっかけともなった。同年に書いた農民の喜劇『ルルー爺さんの遺言』は、1914年春にコポーのヴィユ・コロンビエ劇場で上演された。1914年夏に第一次世界大戦が始まると、自動車輸送班員として従軍した。

1920年から1940年にかけて、地方にこもって大河小説『チボー家の人々』を書いた。出版社はガリマール書店で、刊行は間欠的であった。1922年に第1部『灰色のノート』と第2部『少年園』が出て、1923年に第3部『美しい季節』、1928年に第4部『診察』と第5部『ラ・ソレリーナ』、1929年に第6部『父の死』が続いた。1931年には自動車事故のため2か月入院し、この年にはルイ・ジューヴェ一座が戯曲『無口な男』を上演して好評を得たが、同性愛的な傾向への非難も浴びた。1937年、『第7部 1914年夏』に対してノーベル文学賞が与えられた。第一次世界大戦の破局が予感される時代を舞台に、ブルジョワ社会の精神的風土と思想の摩擦を描いた作品で、完結してまもなく第二次世界大戦が始まった。日本では山内義雄が原著の発行直後から翻訳に着手し、1938年に第1部が出たが、戦中戦後の空白があって、第8部まで刊行を終えたのは1952年であった。

大戦中は主にニースに住んでいたが、マイエンヌ県テルトル城の自宅はナチスに占拠され、ブラックリストに載せられたため、各地を転々としながら次の長編『モーモール大佐』を書き進めた。1955年に刊行されたプレイヤード叢書版の全集に回想録を載せた。1958年8月22日、心筋炎の発作によりオルヌ県セリニーの自宅で没し、ニース郊外のシミエ修道院に葬られた。没後には『モーモール大佐』の未完の草稿や日記、書簡などが出版されている。

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