伝記
アーネスト・オーランド・ローレンスは、1901年8月8日にアメリカのサウスダコタ州カントンで、カール・グスタヴス・ローレンスと妻グンダの長男として生まれた物理学者である。両親はともにノルウェー系で、父はこの町で教育長を務めていた。少年時代の友人には、同じノルウェー系で、のちに近接信管を開発する物理学者となるマール・トューヴがおり、二人で簡単な無線装置を作ったりしていたという。弟のジョンも物理学者となり、シンチグラフィの先駆者として知られる。カントン高等学校を卒業したのち、1918年に医学を志してセントオラフ大学に入学し、翌年サウスダコタ大学に移って医学の勉強を続けたが、電気工学部の教授ルイス・エイクリーの影響で進路を変え、1922年に優秀な成績で化学の学位を取った。
その後ミネソタ大学の大学院に進み、トューヴとともにW・F・G・スワンのもとで学んだ。1年で物理学の修士号を得たあとも研究室に留まり、スワンが1923年にシカゴ大学、1924年にイェール大学へ移ると行動を共にして、1925年に光電効果に関する論文でイェール大学から物理学の博士号を取得した。全米研究会議の給費研究員の制度を利用してイェールで研究を続け、光電効果や電離の研究によって有望な実験物理学者と目されるようになる。1927年にイェールの助教授に採用されたが、翌年に恩師のスワンが去ったこともあり、より良い条件を示したカリフォルニア大学に移った。この時期には、カリウム蒸気中の光電効果の研究のほか、水銀原子のイオン化エネルギーの精密測定や、きわめて短い時間の火花放電技術の開発、電子の比電荷を測定する新方式の発明などを行った。カリフォルニア大学では1928年に準教授、1930年に教授となり、1936年にはバークレーの放射線研究所の所長に就いた。
彼の名を最も高めたのは、原子物理学や素粒子物理学で標準的に使われる加速器、サイクロトロンの発明である。1930年にその基礎理論を発表し、門下の物理学者たちがこの装置を使って多くの人工放射性元素を発見するのを指導した。1937年にはサイクロトロンで放射化したモリブデンからテクネチウムが発見され、ネプツニウムをはじめ1950年代までに見つかった超ウラン元素のほとんどは、彼が所長を務める研究所で合成された。1939年に「サイクロトロンの開発および人工放射性元素の研究」でノーベル物理学賞を受賞した。第二次世界大戦中はマンハッタン計画に参加し、カルトロンを開発して、広島に投下された原子爆弾に必要な濃縮ウラン235の製造に貢献した。戦後も加速器の改良に力を注ぎ、1954年にはバークレーにベヴァトロンを建設し、反陽子の存在はこの装置で確認された。1951年に来日して、理化学研究所や京都大学のサイクロトロンの再建に協力し、同年にはカラーテレビ用の真空管も開発している。
1958年、アイゼンハワー大統領の要請で、ソ連の核実験を中止させる交渉のためジュネーヴへ向かったが、病状が悪化して帰国し、潰瘍性大腸炎によりカリフォルニア州パロアルトで8月に亡くなった。第103番元素ローレンシウムは彼にちなんで名づけられ、没後の1959年にはアーネスト・ローレンス賞も設けられた。ローレンス・バークレー国立研究所とローレンス・リバモア国立研究所にもその名が残る。
同じ年に亡くなった人物
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- ロジャー・バーン (1958年没)
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