伝記
ルイ2世は、1337年2月4日に生まれた第3代ブルボン公で、善良公と呼ばれ、同時代の人々から理想の君主の手本とみなされた。ブルボン公ピエール1世と、ヴァロワ伯シャルルの娘イザベル・ド・ヴァロワの長男である。妹ジャンヌは、のちのフランス王シャルル5世の妃となった。祖父ルイ1世、父ピエール1世、妹ジャンヌらの血族には、程度の差はあれ精神の障害が見られ、ルイ2世自身も精神的に不安定だったと伝えられる。これは遺伝性のものと考えられている。
1356年にポワティエの戦いで父が戦死し、ブルボン公を継いで、フランス大侍従の職も受けた。1359年にはランスの救援に向かい、まもなくブレティニー条約の交渉にあたり、囚われたジャン2世の解放と引き換えに、イングランドへ送られる人質のひとりとなった。1360年から1366年まで6年間捕虜となり、そのあいだ公領は母イザベルが治めたが、傭兵団が居座って恐怖を広げ、領主たちは取り締まるどころか見逃し、ときには略奪に加わった。1366年に解放されると、ルイ2世は領主たちと戦う代わりに、金の盾の騎士団と希望の帯の騎士団を作って、主な貴族に報いた。1367年の元日に祝宴が開かれ、そこでブルボネの検事長ユグナン・ショーが、領主たちの悪事を記した書物を差し出したが、ルイ2世はこれを火に投げ入れ、捕虜の間に家臣が犯した罪をすべて許した。こうして領内の和が戻り、公の軍は1367年と1368年の2度の戦いで傭兵団を打ち破った。
1369年から1374年にかけては、国王とデュ・ゲクランの方針に従って、会戦を避け小競り合いで戦い、リムーザン、ブルターニュ、ギュイエンヌで30ほどの城を奪った。1371年にフォレ女伯アンヌと結婚し、1374年にフォレを併合した。1375年にはシャルル5世の命でベリー公とともにオーヴェルニュへ遠征した。1380年に甥のシャルル6世が即位すると、アンジュー公、ベリー公、ブルゴーニュ公とともに摂政のひとりとなった。1382年にはフランドルの都市反乱の鎮圧に向かってローゼベーケの戦いに加わり、1385年にはギュイエンヌへ遠征した。1390年には十字軍を掲げてチュニジアまで渡った。1392年にシャルル6世が発狂して統治できなくなると政界に戻り、ベリー公と並ぶ穏健派として、豪胆公とオルレアン公の対立を抑えた。
1400年には、息子のクレルモン伯ジャンとベリー公の娘マリーが結婚し、息子のいないベリー公の領土のうち、オーヴェルニュとモンパンシエがこの夫妻に継承されると決められた。同じ年にボージュー卿エドゥアール2世が死ぬと、遺言でボジョレーがルイ2世に譲られたが、膨大な借金の返済に追われた。ブルボン家の男系が絶えたときは領土をすべて王国へ返上すると約束したことも、リスクとなった。1407年にオルレアン公が無怖公の刺客に暗殺されると、厳しい処罰を求めたが、無怖公の威圧で政府が妥協すると和睦へ傾き、1409年にオルレアン公の遺児シャルルと無怖公を和睦させた。同年にヴィシーへ隠居し、1410年8月10日に73歳でモンリュソン城で死去した。公位はジャンが継いだが、彼はベリー公やオルレアン公らとアルマニャック派を作り、無怖公らブルゴーニュ派と武力衝突を起こして、フランスは内乱に陥った。
同じ年に亡くなった人物
- ヤワル・ワカ (1410年)
- フェオファン・グレク (1410年没)
- アレクサンデル5世 (対立教皇) (1410年没)
- フランチェスコ・ディ・マルコ・ダティーニ (1410年没)
- ジョン・ボーフォート (初代サマセット伯) (1410年没)
同じ地域に関係する人物
- ディウィキアクス (紀元前100)
- アンヌ・ド・ボージュー (1522年没)
- ジャン=バプティスト・ドゥ・カッセ (1715年没)
- セバスチアン・ジャプリゾ (2003年没)
- ロジェ・ワルコヴィアック (2017年没)