伝記
ヨープスト・フォン・メーレンは、ルクセンブルク家出身のモラヴィア辺境伯で、のちにブランデンブルク選帝侯やローマ王(対立王)にもなった人物である。チェコ名はヨシュトという。1351年に、モラヴィア辺境伯ヨハン・ハインリヒの子として生まれた。父は、ボヘミア王ヨハンの子で、神聖ローマ皇帝カール4世の弟である。母は、オパヴァ=ラチブシュ公ミクラーシュ2世の娘マルガレーテであった。ローマ王でボヘミア王のヴェンツェルと、のちの皇帝ジギスムントは従弟にあたる。
1372年に、ハンガリー宮中伯を務めるオポーレ公ヴワディスワフの娘エルジュビェタと結婚したが、彼女はすぐに亡くなった。1374年には、ヴワディスワフの妹アグニェシュカと再婚した。二度の結婚で子はなかった。1375年に父が亡くなると、弟のプロコプとヤン・ソビェスラフとともに豊かな遺領を継いだ。父は亡くなる少し前に、息子たちの支援を得て、ブルノ近くにケーニヒスフェルトの修道院を創建していた。ヨープストが主たる辺境伯であったため、兄弟のあいだに絶えない争いが生じた。ヨープストは財力に恵まれ、1387年には従弟のジギスムントがハンガリー王位に就くのを助けた。従弟のヴェンツェルとジギスムントの兄弟に多額の融資と軍事援助をしていたため、1388年に、二人からそれぞれルクセンブルクとブランデンブルクを、借金の抵当として譲られた。ブランデンブルクの統治は義弟のマイセン辺境伯ヴィルヘルム1世に委ね、1397年にはブランデンブルクを正式に与えられて、選帝侯の地位も得た。
野心家でもあったヨープストは、1394年に、ヴェンツェルと対立するボヘミア貴族と組んでヴェンツェルを捕らえて監禁した。翌1395年には、報復に出たヴェンツェルによって自らが監禁された。男子のないジギスムントから、1400年に後継者に指名されたが、ヨープストは反対派と結んでヴェンツェルとジギスムントの兄弟を脅かしていた。1401年にハンガリー貴族がジギスムントに対して反乱を起こすと、混乱に乗じてブラチスラヴァを占拠し、同じ年にローマ王ループレヒトの軍勢がボヘミアに迫ると、そちらに加勢した。ジギスムントもヨープストの油断のならない姿勢を警戒し、1402年に後継者をヨープストからオーストリア公アルブレヒト4世に改め、同年にヨープストの捕縛を企てたが失敗した。ヨープストは、抵当に入れていたルクセンブルクの権利を、オルレアン公ルイに転売した。1407年にルイが暗殺されると、ルクセンブルクはヨープストに戻った。
1410年にループレヒトが亡くなると、ジギスムントの反対にもかかわらず、ヨープストを次期皇帝に推す選帝侯が、ヨープスト本人のほかにも現れて、ジギスムントと二人が並び立つ状況となった。そのなかで1411年1月18日にヨープストが亡くなり、ジギスムントが単独の皇帝となった。ジギスムントは、ブランデンブルク選帝侯にも復位した。ルクセンブルクは、ジギスムントの姪エリーザベトが相続した。モラヴィアはボヘミア王国に戻った。
同じ年に亡くなった人物
- アン・モーティマー (1411年没)
- スレイマン・チェレビー (1411年没)
- ロベール1世 (バル公) (1411年没)
- タテブのグリゴル (1411年(推定))
- メルキオール・ブルーデルラム (1411年(推定))
同じ地域に関係する人物
- ヤン・ブラホスラフ (1571年没)
- カロル・ディビン (2022年没)
- ヨーハン2世 (リヒテンシュタイン公) (1929年没)
- ヨハン・ハインリヒ・フォン・ルクセンブルク (1375年没)
- ジギスムント (神聖ローマ皇帝) (1437年没)