HISTORICAL PERSON · 1411年没

スレイマン・チェレビー

バヤズィト1世の息子でオスマン帝国の空位時代に台頭。ビザンツ帝国と条約を結びエディルネでスルタンを宣言したが、酒に溺れて政治への関心を失い殺害された。

生涯
1411年没
死亡地
ルーマニア(コンスタンツァ県 / コンスタンツァ)
出生地
トルコ共和国(キュタヒヤ)
出典
世界地図
ルーマニア(コンスタンツァ県)

伝記

スレイマン・チェレビーは、オスマン帝国の空位時代に、数年にわたって共同の支配者となった王子である。1377年に、バヤズィト1世の子として生まれた。バヤズィトの長男エルトゥールルに次ぐ次男であった。若いころのことはあまり知られておらず、記録に最初に現れるのは、1389年から1390年の冬にバヤズィトが西アナトリアに遠征したあと、港町を抱えるアイドゥン地方の統治者となったときである。1396年にはニコポリスの戦いに加わった。1398年夏には、アマスヤの占領後に父からスィヴァスへ軍とともに送られ、この地方を支配しようとしていた白羊朝の君主カラ・ユルク・オスマン・ベイを破って、スィヴァスの統治者となった。しかしスレイマンはスィヴァスに長くはとどまらず、兄エルトゥールルが1400年に亡くなったあとは、アイドゥン、サルハン、カレスィの地方を任されたとみられる。その後、ティムールと戦ったアンカラの戦いにも、これらの地方の軍勢を率いて加わった。

アンカラの戦いでオスマン側が敗れると、スレイマンは大宰相チャンダルル・アリ・パシャらとともに戦場を離れ、バルカン半島へ逃れた。1403年に、ビザンツ帝国とガリポリ条約を結んだ。皇帝マヌエル2世が西欧を旅していたため、相手は摂政のヨハネス7世であった。スレイマンはテッサロニキとマルマラ海沿岸の一部の土地をビザンツに譲り、そのかわりに支援を得る約束であった。そのうえで、エディルネでスルタンを称した。この年には、異母きょうだいのカースム、ユースフ、ファトマを人質としてマヌエル2世に差し出し、1404年にはモレア専制公テオドロス1世の庶出の娘テオドラと結婚した。

しかしアナトリアの側は、弟のイーサーとメフメトが支配していた。スレイマンはイーサーを擁してメフメトに対抗しようとしたが、1406年にイーサーはメフメトに何度も敗れた。メフメトの台頭を恐れたスレイマンは、ダーダネルス海峡を渡り、アナトリアの首都ブルサを占領した。続いて、アンカラの戦いのあとで離れていたアイドゥンやメンテシェなどの小さなトルコ系の侯国に圧力をかけ、メフメトからアンカラを奪ったが、それ以上は進めずにブルサへ戻った。これはメフメトに余裕を与えた。メフメトは、同じく帝位を狙う兄弟のムーサー・チェレビーと結び、ワラキア経由でバルカンへ送り込んだ。スレイマンは、アナトリアとバルカンの二つの戦線で戦うことになり、バルカンに向かい、アナトリアはメフメトに任せた。ムーサーはワラキアとセルビアの支援を受け、スレイマンはビザンツに支えられた。一時はムーサーが優勢で、スレイマンは首都エディルネを失った。しかしスレイマンはセルビアの寝返りに成功し、1410年6月15日のコスミディオンの戦いでムーサーを破って、エディルネを取り戻した。

そのあとのスレイマンは酒におぼれ、政治への関心を失った。有能だった大宰相チャンダルル・アリ・パシャが亡くなると、それはいっそう目立ち、支持者の多くが失望した。1411年にムーサーが再びエディルネに攻め寄せたとき、スレイマンのそばにはほとんど誰もいなかった。ビザンツ領へ逃げようとしたが、その途中の2月17日に殺された。その後ムーサーがルメリアの支配者となった。のちメフメトとムーサーは仲違いして戦い、1413年7月5日のチャムルルの戦いでムーサーが敗れて死に、メフメトが帝国の単独の支配者メフメト1世となった。

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