伝記
ボリス・ポール・ヴィアンは、1920年3月10日にパリ郊外のヴィル=ダヴレーで生まれたフランスの作家・詩人である。セミプロのジャズ・トランペット奏者としても名をはせ、余技として歌手活動も行った。エコール・サントラル・パリに入学して土木技師の学位を得て、フランス標準化協会に就職した。しかし取るに足りない仕事の多い閑職だったため、よく暇をもてあまし、第二次世界大戦中は同僚を風刺する小冊子の出版や作曲にふけっていたという。
1940年代後半から1950年代初頭にかけて、10冊の小説を書いた。そのうち四作は、ヴァーノン・サリヴァンというアメリカ風の筆名で発表したハードボイルド・スリラーで、金を稼ぐために書かれた。なかでもデビュー作『墓に唾をかけろ』が有名である。友人の出版業者から、当時フランスで流行しはじめたアメリカのハードボイルド小説の翻訳を頼まれたヴィアンは、「翻訳するぐらいなら俺が自分で書く方が速い」と、短期間でこの作品を書き上げ、黒人脱走兵の作家を名乗って出版させたという。白人への憎悪に燃える黒人青年の残虐な復讐を描いた物語は、大衆には好評だったが、俗悪な暴力小説として糾弾されて裁判に発展し、敗訴した彼は発行部数にちなんで10万フランの罰金を科された。その後も過激な通俗作品は、たびたび出版禁止の措置を受けた。一方、ヴィアン名義では、本命とする前衛的な作品を次々に発表した。『心臓抜き』や『赤い草』『北京の秋』のほか、恋愛小説『日々の泡』も書いている。1946年に発表された『日々の泡』でプレイヤード文学賞を狙ったが、最終選考で落選した。この間に標準化協会を辞め、文筆で生活するようになった。フランスで初めてレイモンド・チャンドラーの翻訳を手がけた功績でも知られ、当時のフランスでは珍しくアメリカの大衆文化に精通していた。
長編小説の創作に成果が得られず嫌気がさしたヴィアンは、劇や短編小説、歌の創作に熱心になった。パリのサン・ジェルマン・デ・プレのクラブ「タブー」でよく演奏し、ポケット・トランペットで演奏した。もっとも有名なシャンソンは、インドシナ戦争中に作詞された反戦歌『脱走兵』で、広く愛唱されたが、当時はラジオでの放送が禁じられた。その歌はジュリエット・グレコやイヴ・モンタンらにカバーされ、セルジュ・ゲンズブールは、ステージ上のヴィアンに出会ったことで作曲に挑んでみる気になったと述べている。ジャズ・ファンだった彼は、デューク・エリントンやマイルス・デイヴィスなど、パリを訪れたジャズ奏者とフランスをつなぐ存在となり、ジャズ雑誌にも多くの評論を寄せた。ただ黒人のジャズこそ本物とみなす傾向が強く、白人の奏者には辛辣だった。生涯アメリカを訪れることはなかったが、あこがれは強く、作品の大部分はジャズとアメリカを題材にしている。
長年、心臓の欠陥と不整脈に苦しんでおり、トランペットを吹くのは危険だったが、本人は意に介さず、「40になる前に死ぬよ」と常々語っていた。1959年6月23日の朝、『墓に唾をかけろ』の映画の試写会に出席した。プロデューサーと作品の解釈をめぐって何度も衝突しており、エンドロールから自分の名を外すよう望んで、映画を公然と非難した。上映が始まって数分後、急な心臓発作に襲われて座席に倒れ込み、病院へ運ばれる途中で息を引き取った。39歳であった。生前の評価は低かったが、没後にコクトー、サルトル、ボーヴォワールらによって再評価され、1968年の五月革命のころからは、若い読者の圧倒的な支持を受けるようになった。
同じ年に亡くなった人物
- アバイ=ネメシュ・オスカール (1959年没)
- エリア・ディ・ボルボーネ=パルマ (1959年没)
- ケイ・ケンドール (1959年没)
- ジョルジュ・ルフェーブル (1959年没)
- ジョージ・グロス (1959年没)
同じ地域に関係する人物
- マリー=ガブリエル・カペ (1818年没)
- ペトルス・ロンバルドゥス (1160年没)
- ピエール=ジョセフ・ペルティエ (1842年没)
- ジャンヌ・ジュリー・エレオノール・ド・レスピナス (1776年没)
- ゲオルギー・マクシミリアノヴィチ・レイフテンベルクスキー (1912年没)