伝記
エイトル・ヴィラ=ロボスは、1887年3月5日にリオ・デ・ジャネイロで生まれたブラジルの作曲家である。独学で作曲を学び、クラシックの技法にブラジル独自の音楽を取り込んだ作風で知られ、作品数は1000を超える多作家でもあった。父ハウルはスペインからブラジルに移住した大学教授でアマチュア音楽家、母ノエミアは作曲家アントニオ・サントス・モンテイロの娘で、夫妻には8人の子が生まれた。一家は二階建ての家に住み、一階では叔父と叔母が商店を営んでいた。そこでは音楽家を招いたパーティが開かれ、エイトルは「トゥフ」というあだ名で可愛がられた。
1892年、父が職場のトラブルや、当時の副大統領を批判する記事を新聞に載せた政治的な危険から、一家はリオを離れて各地を転々とした。1893年にリオへ戻ると音楽家たちのパーティが再開され、ハウルは、就寝時間の言いつけを破ってたびたびパーティをのぞきに来るエイトルの姿に、音楽の手ほどきをしようと決めたという。叔母がバッハの平均律クラヴィーア曲集を好んで弾いたことも、のちの音楽に大きな影響を与えたと伝えられる。エイトルは父からピアノ、クラリネット、チェロを学び、独学でギターとサクソフォンも習い、1899年ごろには記録に残る最初の作品がパーティで披露された。同じ1899年、当時流行していた天然痘で父が亡くなる。医学部のある大学に進ませたい母の反対を押し切り、16歳で家を出て叔母の家に移り、ギターのレッスンなどで収入を得ながら演奏家としての活動を始めた。
1905年にはブラジル北部へ民謡の収集に出かけ、1907年には税関の警備員なども務め、1908年にはパラグアイを拠点に演奏活動を続けた。1913年にピアニストのルシリアと結婚した。1915年から1917年にかけて多くの室内楽作品や管弦楽作品を作曲し、自作だけの演奏会も何度も開いた。1922年の「近代芸術週間」や「独立百周年記念博覧会」で主に室内楽が演奏され、催しの前衛的な趣旨と相まって、前衛作曲家としての地位を高めた。ダリウス・ミヨーやアルトゥール・ルービンシュタインを通じて認められ、政府の奨学金を得て、1923年にパリへ留学した。ルービンシュタインの紹介で、音楽出版社マックス・エシック社と契約を結び、声とヴァイオリンのための組曲などが出版されたが、やがて資金が底をついて一度ブラジルに帰国した。代表作のショーロスの多くは、この時期に作曲されている。その後、カルロス・ギンレの援助でふたたびパリを拠点とし、エドガー・ヴァレーズやストコフスキー、クーセヴィツキー、セゴビアらと交友を結んだ。しかしヴァルガスの起こした政変による金銭難で、留守にしていたパリのアパートを立ち退かされ、第13番と第14番のショーロを含む多くの自筆楽譜が失われたと考えられている。
帰国後、サンパウロ州の統治者から内陸部でクラシック音楽のイベントを行うよう頼まれ、「ヴィラ=ロボス芸術ツアー」と名づけて各州を巡った。1933年にはヴァルガス政権が設立した音楽芸術教育庁の初代長官となり、1945年にはブラジル音楽アカデミーを設立して初代会長に就いた。1948年に膀胱がんが見つかって手術を受け、以降は入退院を繰り返しながら、ヨーロッパやアメリカ、イスラエル、フィンランドなど各地で自作の演奏会を開いた。12曲の交響曲や17曲の弦楽四重奏曲などの古典的な形式の作品から、9曲の「ブラジル風バッハ」のような実験的な作品まで、膨大な数の曲を遺した。1959年11月17日、故郷リオで72年の生涯を終えた。
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