伝記
チャールズ・トムソン・リーズ・ウィルソンは、1869年2月14日にスコットランドのエディンバラ近郊のグレンコースで生まれた気象学者・物理学者で、C・T・R・ウィルソンの名でも知られる。1911年に霧箱を発明し、その功績で1927年のノーベル物理学賞を受けた。家は代々の農家で、父は牧羊業者、母は製糸業を営む家の出であった。4歳で父を失い、母に連れられてマンチェスターへ移り、そこで教育を受けた。大学はオーエンズ・カレッジ(現在のマンチェスター大学)で、医者になるつもりで動物学を専攻したが、物理学の教授バルフォア・スチュアートに出会って、物理学に興味を持つようになった。1888年に奨学生としてケンブリッジ大学に転じ、物理学と化学を学んで1891年に卒業した。母校で1年間助手を務めたあと中学校の教師となり、1894年にはクラーク・マクスウェル研究所の奨学生になった。
彼は若いころから雲に興味を持っていた。1894年9月にスコットランド最高峰ベン・ネヴィスの天文台で数週間を過ごし、雲が日光に当たってできる美しい自然現象に心を打たれて、同じ現象を実験室で再現したいと思ったと、のちにノーベル賞講演で語っている。1895年にキャヴェンディッシュ研究所のJ・J・トムソンの助手となり、人工的に雲をつくる研究を始めた。当時は、空気中の塵が核となって水蒸気が凝結するという「塵説」が優勢で、1890年ごろからヘルムホルツらは、凝結の原因は気体のイオンだとする「イオン説」を唱えていたが、両説の対立は決着していなかった。ウィルソンは、空気を入れたガラスの容器を水中に沈めて外から塵が入らないようにし、断熱膨張を何度も繰り返して容器内の塵を水滴とともに落とし、清浄な空気を得る装置を考案した。その結果、塵のない空気では、膨張比が一定の臨界値を超えなければ水滴はできず、超えると雨のように水滴ができることを発見し、塵以外の凝結核の存在を示した。さらに、1896年に塵を含まない空気にX線を当てて膨張させると濃い霧が生じることを見いだし、凝結核は大気中のイオンだと考えるようになった。
1910年から、イオンを水滴として目に見えるようにする研究に取り組んだ。1911年に装置を改良して、膨張室にラジウムをつけた細い針を入れ、初めてアルファ線の飛跡に沿って霧が現れるのを観察し、糸のように細いベータ線の飛跡も捉えた。その結果を王立協会に投稿している。この霧箱は、その後の原子物理学や宇宙線の研究に大いに役立てられ、アーサー・コンプトンと同時に1927年にノーベル物理学賞を受けた。霧箱を利用してのちにノーベル賞を得た科学者には、アンダーソンやブラケットがいる。1900年にシドニー・サセックス・カレッジのフェロー兼講師となり、1908年に結婚して二男二女をもうけた。キャヴェンディッシュ研究所では、ゲーテのモットー「急がずに、しかし休まずに」のとおり慎重に研究を進めたという。
雷雲の研究も手がけ、1916年の論文で、雷雲は上部が正、下部が負に帯電した双極子であり、電気量は約30クーロンと推定した。これは、下部が正だとしたシンプソンの説と正反対の結果であった。1919年の論文では、繋留気球は雷に危険だが飛行船や飛行機は思ったより危険が小さいと報告した。退職後はエディンバラに移り、80歳のとき生地に近いカーロップス村に住んだが、週に一度はバスで出かけ、友人と昼食を共にした。1956年、87歳のときにも雷雲の電気についての論文を発表し、1959年11月15日に家族に見守られて亡くなった。
同じ年に亡くなった人物
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