伝記
ビリー・ホリデイは、本名をエレオノーラ・フェイガンといい、1915年4月7日、アメリカのフィラデルフィアで、19歳の母セイディーと17歳の父の間に生まれた。自伝では15歳の父と13歳の母が結婚して生まれたと語っているが、のちのジャーナリストの調査では、父クラレンスは母と結婚せず、生まれた子を認知すらしなかったという。クラレンスはジャズ・ギタリストで、昼は街頭を流し、夜はナイトクラブで演奏して暮らしていた。エレオノーラは母子家庭のもとメリーランド州ボルチモアで育ったが、母に子の世話をする時間はなく、世話は母の親族に委ねられた。従姉アイダの暴力に耐える日々で、さらに、昼寝をさせてくれていた曾祖母が抱いたまま亡くなり、硬直した腕で首を絞められるようにして目覚めたことで心的外傷後ストレス障害を発症し、何週間も口がきけなくなった。
学校へ行かなくなった彼女は、1925年1月25日に少年裁判所へ引き出され、保護者のいない未成年と断定されて、ボルティモアの黒人少女のためのカトリック寄宿学校に預けられた。10月に仮釈放の母に引き取られたが、母は外泊が多く、近所の男性に強姦される被害を受けた。男は有罪となったが、親の保護が不十分と判断された彼女は、再び同じ施設で1927年2月まで暮らした。1928年に母とニューヨークへ移り、禁酒法時代のハーレムで非合法のナイトクラブに出入りするようになった。1929年には母とともに売春の容疑で留置されたという記録もある。やがて有名なジャズクラブでも歌い始め、そのころ父がフレッチャー・ヘンダーソン楽団で演奏していたため、再会を果たした。15歳のとき、サックス奏者のケニス・ホーロンと出会い、クイーンズとブルックリンで最初の契約を得た。幼い頃に父が男の子のような外見の彼女を「ビル」とからかったのを覚えていて、それに父の姓をつけて芸名を「ビリー・ホリデイ」とした。
1933年、プロデューサーのジョン・ハモンドがクラブで彼女の歌を偶然耳にして才能を見いだし、クラリネット奏者ベニー・グッドマンとの録音に呼んだ。18歳の彼女は35ドルを受け取った。サックス奏者レスター・ヤングとはすぐに意気投合し、彼は彼女を「レディ・デイ」、彼女は彼を「プレズ」と呼んだ。1935年にはデューク・エリントンの短編映画で歌い、同年7月にテディ・ウィルソンらと「月光のいたずら」などを録音して、その年のベストセラーとなった。カウント・ベイシー楽団やアーティ・ショウ楽団とも共演し、白人のオーケストラと仕事をした初の黒人女性となったが、南部では人種差別のため楽団員と同じホテルに泊まることも、レストランに入ることもできず、巡業を途中で切り上げざるを得なかった。1937年には父がダラスで肺炎になり、いくつもの病院に診療を拒まれて亡くなった。自伝には「肺炎が父を殺したのではない。ダラスが父を殺したのだ」と書いている。1939年、若い教師が作った南部の人種差別を歌う「奇妙な果実」と出会い、レコード会社が録音を拒むなか、小さなレーベルで4月20日に録音した。この曲はテーマソングとなり、大きな成功を収めた。
一方で私生活では、結婚相手ジミー・モンローを通じてアヘンやコカインを覚え、のちに出会ったジョー・ガイの影響でヘロインにも手を出した。1945年に母が亡くなると依存は深まった。1947年に麻薬所持で逮捕され、連邦女子刑務所に8か月服役し、その後12年間、ニューヨークのキャバレーに出演できなくなった。1959年7月17日に没した。
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