伝記
ジョージ・キャトレット・マーシャル・ジュニアは、1880年12月31日、アメリカのペンシルベニア州ユニオンタウンで、石炭とコークスの事業に携わる父ジョージと母ローラ・エミリー(旧姓ブラッドフォード)の3人の子の末っ子として生まれた。一族はケンタッキーの出ながら、ヴァージニアの縁を大切にしていた。のちに支持政党を聞かれると、父は民主党、母は共和党で、自分は聖公会だと冗談を言ったという。1901年にヴァージニア軍事大学を卒業し、1902年2月に歩兵少尉に任官して、すぐフィリピンに赴いた。ウェストポイント以外の出身者としては異例の出世をした軍人である。1907年の歩兵騎兵学校の課程では首席の一人となり、1908年の陸軍幕僚学校でも首席で卒業した。1902年2月にリリー・カーター・コールズと結婚したが、1927年9月にリリーが亡くなり、1930年10月にキャサリン・ボイス・タッパーと再婚した。どちらの結婚でも子はなかった。
第一次世界大戦の1917年にはフィリピン勤務などを経て少佐となり、第1歩兵師団の参謀としてフランスへ派遣された。のちにヨーロッパ派遣軍最高司令部の作戦計画担当として、ムーズ・アルゴンヌ攻勢などの立案に当たった。1918年8月に大佐となり、派遣軍総司令官パーシングの副官を務めた。戦後は約3年の中国駐在を経験し、第15歩兵連隊の副長などを務めた。1923年に中佐、1927年には歩兵学校の副校長となり、指揮と幕僚の手順の近代化を進めた。1936年10月に准将になり、1938年7月には陸軍省の作戦計画部に移った。1939年9月、第二次世界大戦が勃発した同年にローズヴェルト大統領から陸軍参謀総長に指名され、大将に昇進した。陸軍長官スティムソンと協力して米国史上最大の軍の拡張を進め、ヨーロッパと太平洋での連合軍の作戦を調整した。1943年にはタイム誌の「マン・オブ・ザ・イヤー」に選ばれ、1944年12月に元帥となった。チャーチルは彼を「勝利の組織者」と称えた。
1945年に参謀総長を辞して軍を退いたが、11月27日にトルーマン大統領から、中国の国共内戦を調停する特使に任命された。1946年1月、国民党の張群、共産党の周恩来と三者会談を開き、停戦協定を成立させた。国民党も共産党も含む連立政府の樹立と軍隊の統一を目指し、中国国民から「平和の使徒」ともてはやされたが、調停はやがて行き詰まり、国民党が内戦を起こしたため本国に召喚された。1947年1月に国務長官に就任し、同年6月5日、ハーバード大学の卒業式での講演で、のちにマーシャル・プランと呼ばれるヨーロッパ復興計画の概略を発表した。中国政策は、のちに反共強硬派のジョセフ・マッカーシーらから批判の根拠にされた。1949年1月に国務長官を退くと、10月にアメリカ赤十字社の総裁に就き、1950年9月には軍人の就任を避ける法に特例を認められて国防長官となり、1951年9月まで務めた。1953年12月、マーシャル・プランの立案と実行により、ノーベル平和賞を受けた。1959年10月16日、ワシントンで78歳で死去し、アーリントン国立墓地に葬られた。
性格は堅物で、閣僚にさえ名で呼ばせなかった。トルーマン大統領に「ジョージと呼んでいいか」と尋ねられても、「いいえ、マーシャル将軍とお呼び下さい、閣下」と答えたという。
同じ年に亡くなった人物
- ワンダ・ランドフスカ (1959年没)
- ボリス・ヴィアン (1959年没)
- ダニエル・フランソワ・マラン (1959年没)
- フェイェール・リポート (1959年没)
- ウィリアム・リーヒ (1959年没)
同じ地域に関係する人物
- ジャック・スワイガート (1982年没)
- アレクサンダー・カジュダン (1997年没)
- ジョン・モスビー (1916年没)
- ジョン・ヘンリー・イートン (1856年没)
- ジョン・フォスター・ダレス (1959年没)