伝記
ラディズラーオ1世は、1376年か77年の2月にナポリで生まれ、1414年8月6日に没したナポリ王である。名目上は、エルサレム王、シチリア王、プロヴァンス伯、ハンガリー王でもあり、アンジュー=シチリア家の最後の男系男子であった。父はカルロ3世、母はマルゲリータ・ディ・ドゥラッツォで、両親は長年、親戚のハンガリー王ラヨシュ1世の宮廷で暮らしており、息子の名は、ハンガリーの聖王ラースロー1世にちなむ。1379年に、父は教皇ウルバヌス6世の後ろ盾を得て、女王ジョヴァンナ1世に戦いを挑み、王を名乗った。母はジョヴァンナの人質になることを恐れ、ラディズラーオを連れてモルコーネの城へ逃れた。一家は、父が勝利した後の1381年9月11日に、ナポリへ戻った。11月5日、父はラディズラーオに、後継者が継ぐのが慣例のカラブリア公領を授けた。
1386年、父がハンガリー王位を求める途上で暗殺され、9歳のラディズラーオは、母の摂政のもとでナポリ王となった。当時、王国では、ウルバヌス6世がけしかけた貴族の反乱が起こり、1385年に教皇がプロヴァンス伯ルイ2世・ダンジューに王位を与えていたことから、フランスの侵攻の危険もあった。ウルバヌス6世は、ラディズラーオを認めず、1387年に彼に対する十字軍を呼びかけた。母子が押さえていたのはナポリとその周辺くらいだったが、市内で騒乱が起こると、ガエータの要塞へ逃れ、ナポリはアンジュー軍に占領された。1389年、新しい教皇ボニファティウス9世は、ラディズラーオをナポリ王と認めたが、ドイツやイタリアの家領との合体は禁じた。ガエータで、シチリアの有力な貴族の娘コスタンツァ・キアラモンテと結婚したが、この結婚は数年のうちに解消された。1390年には、アルルの大司教に毒を盛られ、命は助かったが、以後は吃音になり、たびたび休養を取らねばならなくなった。同じ年に、ルイ2世がナポリに侵攻し、9年に及ぶ戦争となった。ラディズラーオは、ルイ2世の支配をナポリ市とオトラント地方に抑え込み、1399年、ルイ2世がレッチェ伯と戦っている間に、有力な貴族たちの支持を得て、ナポリ市を取り戻した。ルイ2世はプロヴァンスへ戻った。
ラディズラーオは、ハンガリーとクロアチアの王位も求め、ジギスムントに反対する貴族たちに擁立された。1403年7月19日にザラに上陸し、8月5日に、エステルゴム大司教らの手で、ハンガリーとクロアチアの王として戴冠した。しかし、その支配はダルマチアを越えず、実効支配はならなかった。
このころ、キプロス王の娘マリアと結婚していた。野心家のラディズラーオは、教会大分裂のさなかにつけ込み、1404年に、教皇インノケンティウス7世とローマ市民との紛争を調停した。1406年には、レッチェ女伯マリア・デンギエンとも結婚した。いずれの結婚でも子は得られなかった。1408年にはローマを占拠し、ラツィオ、ウンブリアも占領した。翌1409年にはトスカーナへ侵攻したが、フィレンツェとシエーナの連合軍に敗れ、ピサ教会会議で選ばれた対立教皇アレクサンデル5世に破門された。支持されたルイ2世がフィレンツェ、シエーナと手を結び、ローマ市民の蜂起もあって、ナポリへ退去した。1413年、教皇グレゴリウス12世の不在のローマを再び占領し、対立教皇ヨハネス23世と、後援者のジギスムントの通行を妨げた。翌1414年、38歳でナポリで世を去った。子がなかったため、ナポリ王位は姉のジョヴァンナ2世が継いだ。
同じ年に亡くなった人物
- パラメスワラ (1414年没)
- ベアトリクス・フォン・ニュルンベルク (1414年没)
- デウレト・シャー・ハトゥン (1414年)
- マジドッディーン・フィールーザーバーディー (1414年没)
- ヴェルデ・ヴィスコンティ (1414年没)
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