伝記
フィリパ・デ・レンカストレは、1359年3月31日(1360年とする記述もある)に生まれ、1415年7月19日に没した、ポルトガル王ジョアン1世の王妃である。英語ではフィリッパ・オブ・ランカスターと呼ばれる。イングランド王子のランカスター公ジョン・オブ・ゴーントと、その最初の妃ブランシュの娘で、ランカスター朝の初代イングランド王ヘンリー4世の姉にあたる。父方の祖母である王妃フィリッパ・オブ・エノーにちなんで名づけられ、この祖母が名づけ親でもあった。
フィリパは貴族にふさわしい教育を受け、典礼書を読めるだけのラテン語と、物語や手引書を読むためのフランス語と英語を学んだ。謙虚さ、へりくだり、精神の清らかさといった、当時尊ばれた徳目を身につけるように教えられた。9歳ごろには、名づけ親の祖母が亡くなり、続いて母もペストで世を去った。フィリパは、のちに父の愛人となるカタリナ・スウィンフォードの世話を受けた。父は家臣や子供たちに気前がよく、文学の庇護者として知られ、フィリパもその影響を受けた。「花と葉」と呼ばれる宮廷の読書の集まりで自分の詩人の輪を作り、詩人ウスターシュ・デシャンはフィリパを花にたとえる詩を捧げた。18歳のときにはイングランドのガーター勲章を授けられ、のちに聖なる王妃というイメージを支えることになった。
父は、1385年からジョアン1世が率いるポルトガルを、カスティーリャでの自分の利害のための重要な同盟者とみていた。ジョアン1世にとっても、この同盟はポルトガルの独立を支えるものだった。1386年にウィンザー条約が結ばれ、1387年2月2日にフィリパとジョアン1世がポルトで結婚して、同盟は固められた。フィリパはイングランドとポルトガルの貴族に付き添われてポルトに着き、盛大な祝いを受けた。数日後にジョアン1世が到着し、2人は語り合って贈り物を交わした。結婚の後も祝宴は15日続いた。政略結婚ではあったが、教養があり、イングランドの騎士道の精神にも通じた王妃は宮廷の中心人物となり、王とも円満だったという。
フィリパはジョアン1世から、リスボンの税関やアレンケル、シントラ、オビドス、アルヴァイアーゼレ、トーレス・ノヴァス、トーレス・ヴェドラスの収入を与えられた。年代記作者フェルナン・ロペスは、王妃を気前がよく民に愛される人として描いている。フィリパはイングランドの親族とも手紙を交わし、自分や王が送った文書を記録する習慣を定めた。夫妻には9人の子が生まれ、成人したドゥアルテ1世、コインブラ公ペドロ、ヴィゼウ公エンリケ航海王子、ブルゴーニュ公フィリップ善良公の3度目の妃イサベル、ジョアン、フェルナンド聖王子らは、ヨーロッパ中で教養ある王子として尊敬される「輝かしい世代」として記憶された。これは王妃から受けたイングランド王家の血と、確かな教育の結果であったとされる。
1415年、フィリパはペストにかかり、セウタ攻略の遠征に旅立つ数日前に死去した。リスボン近郊のオディヴェラスの修道院で亡くなったという説が、現在は有力である。死の床で、セウタへ向かう王子たちを呼んで剣を与え、「勇ましく戦っておいで」と送り出した。遺体はバターリャの修道院の創設者の礼拝堂に、夫とともに葬られている。
同じ年に亡くなった人物
- アントワーヌ (ブラバント公) (1415年没)
- マイスター・ベルトラム (1415年)
- リチャード・オブ・コニスバラ (1415年没)
- フィリップ・ド・ブルゴーニュ (1389-1415) (1415年没)
- シャルル1世・ダルブレ (1415年没)
同じ地域に関係する人物
- ガーゴ・コーチニョ (1959年没)
- ルイス1世 (ポルトガル王) (1889年没)
- ドゥアルテ (ギマランイス公) (1540年没)
- ジョゼ・アグアス (2000年没)
- マヌエル・ゴメス・ダ・コスタ (1929年没)