HISTORICAL PERSON · 1415年没

リチャード・オブ・コニスバラ

第3代ケンブリッジ伯。ヘンリー5世暗殺を狙うサウサンプトンの陰謀に加わったが計画は露見し、フランス遠征直前に斬首刑に処された。

生涯
1415年没
死亡地
イギリス連邦(サウサンプトン)
出生地
イギリス連邦(コニスボロー城)
出典
世界地図
イギリス連邦(サウサンプトン)

伝記

リチャード・オブ・コニスバラは、1385年7月ごろにヨークシャーのコニスバラ城で生まれ、1415年8月5日に没したイングランドの王族で、第3代ケンブリッジ伯である。エドワード3世の五男である初代ヨーク公エドマンド・オブ・ラングリーの次男で、母はカスティーリャ王ペドロ1世の娘イザベラである。生まれた年や洗礼を伝える確かな記録はなく、1375年ごろの生まれとする後世の記録もあるが、名づけ親だった国王リチャード2世が1375年にはまだ8歳だったことから、リチャード2世がヨークに滞在した1385年7月ごろの誕生と考えられている。父や兄から所領を譲られず、父の遺言にも名が出ないことから、本当は母とエクセター公ジョン・ホランドとの間の子だったとする説もある。

母イザベラは1392年12月23日に亡くなる前、リチャード2世を相続人に指名し、次男に年金を与えるよう頼んだ。国王はこれに応じ、1393年に、母がヨークシャーの収入から得ていた年100ポンドと、財務府から350マルクの年金を与えた。しかし1399年にリチャード2世が廃位されると、新王ヘンリー4世のもとでは、唯一の収入だったこの年金が不規則にしか払われなくなり、あるいは止まった。1403年4月から1404年10月まで、リチャードは小さな軍勢を率いて、ウェールズの反乱指導者オウェイン・グリンドゥールに対しヘリフォードシャーを守った。1406年7月に騎士に叙され、その8月には、ヘンリー4世の娘フィリッパのデンマーク王エーリク7世への輿入れに付き添う使節の一人に選ばれた。この使節の間に、のちの陰謀の仲間となるスクループ卿と親しくなったとみられる。

1408年の初め、リチャードはマーチ伯ロジャー・モーティマーの娘で、伯父ライオネル・オブ・アントワープの曾孫にあたるアン・モーティマーと結婚した。これにより、子のない義弟マーチ伯エドマンド・モーティマーの爵位の推定相続人となり、1411年には嫡男リチャードが生まれた。1414年の議会で、リチャードは兄エドワードが持っていたケンブリッジ伯に叙された。ようやく兄と同じ貴族となったが、爵位に見合う所領は与えられず、ヘンリー5世のフランス遠征に向かう伯爵の中で「最も貧しい伯爵」と呼ばれ、軍勢を整える資金に苦しんだ。

そのためもあってか、リチャードは国王に不満を抱き、1415年にスクループ卿やトマス・グレイ卿とともに、ヘンリー5世を廃してアンの兄であるマーチ伯エドマンドを王位に就ける陰謀に加わった。しかし7月31日、マーチ伯が滞在中の国王にこの陰謀を打ち明けた。翌8月1日にケンブリッジ伯らはサウサンプトンで拘束された。グレイ卿は全てを告白して斬首刑になった。リチャードは慈悲を願ったが、8月5日に斬首刑に処された。マーチ伯は、リチャードに死刑を言い渡す委員会にも加わっていた。スクループ卿は絞首刑のうえ四つ裂きにされた。遺体はサウサンプトンのゴッズ・ハウスの礼拝堂(現在の聖ジュリアン教会)に葬られた。遠征の艦隊は、数日後の8月11日に出航した。

爵位は没収されたが、リチャードは私権剥奪を受けず、当時4歳の息子リチャードが跡を継ぐことになった。3か月足らずの後、兄のヨーク公エドワードがアジャンクールの戦いで子のないまま戦死したため、息子は伯父の爵位と所領も受け継いだ。1461年の議会では、孫の国王エドワード4世が、祖父に下された判決を「不規則で不法」として取り消させた。エドワード4世と、のちのリチャード3世の兄弟は、リチャード・オブ・コニスバラの孫にあたる。

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