伝記
ベルナール7世は、百年戦争期のフランスの貴族、軍人で、アルマニャック伯である。1360年ごろ、アルマニャック伯ジャン2世と、ジャンヌ・ド・ペリゴールの次男として生まれた。兄はジャン3世である。ベルトラン・デュ・ゲクランの指導を受けて軍人として成長し、父に仕え、兄とともに各地を荒らす傭兵集団と戦った。1384年と1389年には、この集団をスペインへ連れ出そうと試みた。1391年に兄が亡くなってアルマニャック伯となり、それまでのシャロレ伯領は、ブルゴーニュ公フィリップ豪胆公に売った。コマンジュ伯領を手元に保つため、兄の寡婦マルグリット・ド・コマンジュを遠縁のジャン・ダルマニャックと結婚させ、のちにこのジャンとその子らを獄中で死なせて領地を取り戻したとされ、寡婦も捕らえておいたという。1393年にはベリー公ジャン1世の娘ボンヌ・ド・ベリーと結婚し、一族で初めて王家と縁を結んだ。
1407年にオルレアン公ルイがブルゴーニュ公ジャン無怖公に暗殺されると、ルイの長子シャルルを筆頭とするオルレアン派と、無怖公を筆頭とするブルゴーニュ派の内乱が激しくなった。1410年4月15日、ジアンで、オルレアン公とベルナール7世、舅のベリー公、ブルターニュ公ジャン5世、ブルボン公ジャン1世、アランソン伯ジャン1世らの間で同盟が結ばれた。ベルナール7世は同年8月、長女ボンヌをオルレアン公シャルルと結婚させ、舅として人員や物資の面で大きく貢献した。このためオルレアン派は、アルマニャック派とも呼ばれる。11月2日、ビセートルで和平が結ばれたが、1411年夏に内戦が再び起こり、シャルル6世は無怖公にアルマニャック派の討伐を命じた。1412年7月、サヴォイア伯アメデーオ8世の仲介で、1409年のシャルトルの和約の状態へ戻すことが承認された。
1413年春、無怖公に協力的な食肉商率いるカボシャン党が占拠するパリで混乱が起こると、ベルナール7世は国王シャルル6世と王太子ルイの救援に応じて8月にパリへ入り、蜂起を鎮圧した。無怖公はパリを去り、パリはアルマニャック派の支配下に入った。1414年初頭には、ブルゴーニュ派のパリへの進軍を撃退し、5月から7月にかけてブルゴーニュ派の都市を次々と落とし、9月4日に和睦した。1415年10月、アジャンクールの戦いでオルレアン公シャルルら幹部が戦死または捕虜となり、アルマニャック派は大きな打撃を受けた。戦死した司令官の後任には、ベルナール7世が任じられた。さらに同年と翌年に、王太子ルイとベリー公が亡くなった。ベルナール7世はパリで圧政を敷くようになり、粛清への市民の不満が高まった。
1418年、各地の都市がイングランド軍に落とされるなか、無怖公が王妃イザボーをトロワに迎え、政府は王妃側と王太子シャルル側に分裂した。パリはブルゴーニュ派に補給を絶たれ、市民は食糧難に苦しんだ。5月に、ブルゴーニュ派の者が城門の鍵を手に入れて、同派がパリに入り、暴動を起こした。ベルナール7世は抵抗できずに捕らえられ、6月12日に殺害された。7月に、無怖公はトロワからパリへ盛大に入った。ベルナール7世は、ロデズ近郊のボンヌヴァル修道院に葬られることを望んだとされるが、実際のところは定かでない。
同じ年に亡くなった人物
- テオドーロ2世 (モンフェッラート侯) (1418年)
- ミルチャ1世 (1418年没)
- スチェパン・オストヤ (1418年)
- ベアトリーチェ・カーネ (1418年没)
- オナ (1418年)
同じ地域に関係する人物
- ギイ・ジル (1996年没)
- フランソワ=ルネ・ド・シャトーブリアン (1848年没)
- ジェラール・ウーリー (2006年没)
- ジャン・キュニョー (1933年没)
- ポール・モンテル (1975年没)