伝記
エーリヒ・ヨーハン・アルベルト・レーダーは、1876年4月24日、ハンブルクのヴァンツベックで学校長の息子として生まれたドイツの海軍軍人である。ドイツ国防軍の海軍総司令官を務め、最終階級は海軍元帥であった。1894年4月に海軍兵学校へ入り、練習船「シュトッシュ」、次いで「グナイゼナウ」で基礎訓練を積んで、1897年10月に海軍少尉に任官した。1903年に海軍大学に入校し、1906年に海軍本部の通信部門へ移った。1908年から海上勤務に戻り、装甲巡洋艦「ヨルク」の航海長を務めた。1910年9月には皇帝ヴィルヘルム2世のお召しヨット「ホーエンツォレルン」に移り、1912年10月には、大洋艦隊の偵察艦隊を率いるフランツ・フォン・ヒッパーの参謀長となった。
第一次世界大戦が始まると、ヒッパーの下で1915年1月のドッガー・バンク海戦や、1916年5月31日のユトランド沖海戦などの主要な作戦に参加した。1918年1月に軽巡洋艦「ケルン」の艦長となって大佐に昇進したが、戦闘には加わらなかった。戦後も海軍本部の管理部門に残ったが、1920年3月のカップ一揆の後、海軍にも追及が及び、レーダーは逮捕を免れたものの、トロータ中将との関係が疑われて、戦史編纂課長に左遷された。しかしこの機会に古今の戦史や政治経済を学び、1922年に巡洋艦の戦史『海戦 1914年から1918年』を出版した。この本は、巡洋艦を世界各地に分遣して英国の補給路を断つという戦略論で、のちのナチス・ドイツ海軍の通商破壊作戦の原型が表れていると評される。
1922年に教育局監査官へ返り咲き、海軍少将となって、北海軽艦隊司令官、バルト海司令官を歴任し、1928年10月に海軍大将として海軍統帥部長官に就いた。実権を握った彼は、ヴェルサイユ条約で軍備を制限された海軍の再建を進め、ポケット戦艦の開発などで戦力差を埋めようとした。1933年1月にヒトラーが首相になると、条約の軍事条項の破棄を前提に建艦計画を立てるよう命じられ、1935年3月に再軍備が宣言されると、新生ドイツ海軍の総司令官に任命された。1936年に海軍上級大将、1939年4月には海軍元帥に昇進した。ナチス時代に元帥となったのはレーダーとデーニッツのみである。1938年には、6年でイギリス海軍に対抗できる艦隊を作るZ計画を提示したが、潜水艦による通商破壊を重視するデーニッツらに批判され、1939年のポーランド侵攻で中絶された。
第二次世界大戦では、1940年4月の北欧侵攻で、海軍が陸軍部隊をノルウェーへ輸送して作戦の成功に貢献したが、イギリス海軍の攻撃で艦隊は大きな損害を受けた。同年にはイギリス本土上陸作戦「アシカ作戦」が計画されたが、制空権を得られず実行されなかった。1942年12月31日、対ソ援助船団を攻撃するレーゲンボーゲン作戦が失敗すると、ヒトラーは海上部隊を解体せよと命じた。これに絶望して1943年1月30日に総司令官を辞任し、後任にはデーニッツが就いた。敗戦後の1945年にソ連軍に逮捕され、ニュルンベルク裁判の被告となり、1946年10月に終身刑を宣告された。シュパンダウ刑務所に収監されたが、1955年9月に健康悪化を理由に釈放された。キールに住んで回想録を書き上げ、1960年11月6日に同地の病院で84歳で死去した。
同じ年に亡くなった人物
- アルベール・カミュ (1960年没)
- アレグザンダー・マウントバッテン (初代キャリスブルック侯爵) (1960年没)
- ドロテア・ダグラス・チェンバース (1960年没)
- フォルトゥナート・デペーロ (1960年没)
- ジャック・ベッケル (1960年没)
同じ地域に関係する人物
- アルベルト・エクハウト (1665年没)
- ウボ・エメン (1625年没)
- フランシスクス・ホマルス (1641年没)
- Jan Pesman (2014年没)
- アドリアーン・ブラウ (2010年没)