伝記
ムアイヤド・シャイフは、エジプトを支配したブルジー・マムルーク朝の第5代スルターンである。1412年から1421年まで在位した。称号はアル=ムアイヤド・アブー・ナスルで、アル=ムハンマディーとも呼ばれる。1369年ごろに生まれたとされる。12歳のとき、初代スルターンのバルクークに奴隷として買われ、仕えるうちにあらゆる位階を経た。ただし、もとはマムルークではなかったという説もある。
ファラジュの時代の1400年に、トリポリの総督に任じられた。ティムールがシリアに侵攻したとき、ほかのアミールたちがアレッポの要塞に逃げ込むなか、シャイフはあえて攻撃した。捕虜となったが、逃げ出したとも、捕虜のままだったともいわれる。ティムールはダマスクスを略奪し、大モスクを損なって、職人や学者を連れ去ったのちシリアを去った。ティムールの撤退を最初に知らせたのは、シャイフであった。シリアはすぐにマムルークの手に戻り、シャイフはダマスクスの総督に任じられた。1404年にヤシュバクと結んでファラジュを脅かしたが敗れ、総督の地位を失った。1405年の政変でファラジュが逃げ、弟のアブドゥルアズィーズが立つと、ヤシュバクの一派が勝って、シャイフは副スルターンとなった。アブドゥルアズィーズの在位は70日で終わり、ファラジュが復位した。
シャイフはダマスクスの総督に戻ってファラジュに従い、アレッポのアミール、ジャカムが自らスルターンを名乗って起こした反乱の鎮圧を助けた。ところがファラジュが彼を軽率に逮捕すると、シャイフは逃げ出して、後任のヌールーズからダマスクスを奪い、ヌールーズにはトリポリの統治を譲った。ファラジュとシャイフはこのあと和解した。1409年にファラジュはシャイフをダマスクスから追い出そうと包囲し、シャイフはいったん降伏したが、忠誠を訴えながらダマスクスを取り戻した。1410年には、ほかのアミールとカイロを押さえてファラジュの子を擁立しようとしたが、スルターンが近づくとスエズへ退いた。ファラジュはまたも彼を許し、アレッポの統治を与えた。
1412年にまた反乱が起き、見捨てられたファラジュは降伏した。戦いのなかでアッバース朝のカリフ、ムスタイーンが捕らえられており、反乱者らは、カリフにファラジュの廃位を宣言させ、自らスルターンの称号を受けさせた。ファラジュはダマスクスの城塞で殺された。シャイフはカリフとともにカイロへ戻り、7か月でカリフの人気を落とし、スルターンの位を奪って自ら即位した。カリフはアレクサンドリアへ送られた。ヌールーズは承認せず、聖戦を宣言したが、ダマスクスで包囲され、1413年に捕らえられて処刑された。シャイフはシリアでのマムルークの支配を回復した。
即位後のカイロは、ペストや飢饉、貨幣の価値の下落で混乱していた。シャイフは貨幣を立て直し、ベドウィンの侵入を抑えた。農業の生産が戻り、穀物の値が下がった。また、領土の拡大や従属国の離反を抑えるため、たびたび遠征した。1415年には、カラマン朝に奪われたタルススを、マムルークの臣下のラマザン朝に返した。文化事業にも力を入れ、一時的とはいえマムルーク朝の政情を安定させ、全盛期を再現した。1421年にシャイフが亡くなると、幼い息子のムザッファル・アフマドが後継者となったが、配下の不満を呼び、先代と同じように世襲はならなかった。
同じ年に亡くなった人物
- トマス・オブ・ランカスター (1421年没)
- ヒズル・ハーン (1421年没)
- フィルベール・ドゥ・ネラク (1421年)
- ジャン2世・ル・マングル (1421年没)
- ナンニ・ディ・バンコ (1421年)
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