伝記
トマス・オブ・ランカスターは、ランカスター朝のイングランドの王族で、軍人である。クラレンス公と呼ばれた。ヘンリー4世と最初の妻メアリー・ド・ブーンの次男で、ヘンリー5世の弟、ベッドフォード公ジョンとグロスター公ハンフリーの兄にあたる。1388年9月29日生まれとされることもあるが、1387年11月25日の父の会計簿に乳母への支払いが記されているため、1387年中の誕生と考えられる。生まれたのはおそらくロンドンで、ケニルワース城とする史料もある。
1401年、父はトマスをアイルランド総督に任じた。トマスはまだ14歳で、1401年11月にダブリンへ上陸し、その後の8年間の多くをアイルランドで過ごした。1406年にはダブリン近郊の小競り合いで、あやうく命を落とすところであった。1409年以降はアイルランドへ戻らなかったが、総督の地位は1413年まで保った。1411年の11月か12月には、叔父で初代サマセット伯ジョン・ボーフォートの未亡人マーガレット・ホランドと結婚した。マーガレットはケント伯トマス・ホランドの娘である。二人の間に子は生まれなかったが、トマスは、マーガレットが先の結婚でもうけた六人の子の継父となった。
1411年に父が病に倒れると、兄のヘンリーが国王評議会の中心となった。若いヘンリーは、フランスへの開戦を支持する者たちを集め、国王の意に背いて評議会に開戦を決めさせたため、父に評議会から外された。トマスは兄の席を与えられ、父の平和政策に従った。のちに兄と和解している。1412年6月8日、ヘンリー4世は、アルマニャック派の諸侯に約束した重装騎兵1000人と長弓兵3000人の軍をトマスに指揮させた。7月9日、軍がサウサンプトンに集まっているとき、国王はトマスをクラレンス公に叙し、その2日後にアキテーヌの代理官に任じた。8月の第1週に軍は出航したが、その前にブルゴーニュ公ジャンがアルマニャック派との和平を決めていた。それでもクラレンス公は進み、ロワール川へ向かって略奪と破壊を行い、約束の支払いを求めた。11月14日、ビュザンセで、ベリー公、ブルボン公、オルレアン公と、翌年1月1日までにイングランド軍が去る代わりに4万ポンドを支払う協定を結んだ。
兄ヘンリー5世のフランス遠征にも従い、1415年のアルフルール包囲戦に加わり、1417年9月にはノルマンディーのカーンを落とした。1418年7月29日から1419年1月19日のルーアン包囲戦では、包囲軍を指揮した。ヘンリー5世がトロワ条約でフランス王位の継承者となり、新しい妻カトリーヌとともに一時イングランドへ戻ると、クラレンス公はフランス駐留軍の司令官を任された。皇太子はこの条約を認めず、スコットランド軍の助けを得て抵抗を続けた。
クラレンス公は国王の指示で4000人を率い、アンジューとメーヌを襲った。聖金曜日の1421年3月21日には、イングランド軍はヴィエイ=ボージェの町の近くに陣を張っていた。ブカン伯とフランス元帥ラ・ファイエットが率いる約5000人の仏・スコットランド連合軍も到着していたが、イングランド軍は散っており、多くの弓兵が略奪や食糧を探しに出ていた。クラレンス公は敵と戦うことを望み、軽率な攻撃に出て、主な騎士らとともに包囲され、3月22日のボージェの戦いで33歳で戦死した。フランスへの報復に向かった兄ヘンリー5世も、疫病にかかって翌1422年に亡くなった。シェイクスピアの史劇『ヘンリー四世 第2部』に登場する。
同じ年に亡くなった人物
- フィルベール・ドゥ・ネラク (1421年)
- ムアイヤド・シャイフ (1421年没)
- ナンニ・ディ・バンコ (1421年)
- メフメト1世 (1421年没)
- Stephen Ostojic of Bosnia (1421年)
同じ地域に関係する人物
- エルマンガルド・ド・エスベイ (818年没)
- ジュリアン・グラック (2007年没)
- ジャック・カトリノー (1793年没)
- マーガレット・オブ・アンジュー (1482年没)
- イザベル・ド・ロレーヌ (1453年没)