伝記
後亀山天皇は、日本の第99代天皇であり、南朝の第4代天皇である。諱は熙成という。1350年(正平5年)に、後村上天皇の第二皇子として生まれた。出生や生い立ちは明らかでないが、兄の長慶天皇が即位した1368年の3月から8月までのあいだに皇太弟に立てられ、すでに天皇の政務を補佐していたようである。
1383年(弘和3年、永徳3年)の冬、長慶天皇の譲位を受けて即位した。当時の行宮は、奈良県五條市の栄山寺であったらしい。この皇位の交替の背後には、室町幕府への姿勢をめぐって、強硬派の長慶天皇と、和平派の後亀山天皇との間に内部の対立があり、参議楠木正儀ら和平派が台頭して、後亀山天皇の即位が実現したと考えられている。在位の9年間は、ちょうど南朝の衰退期にあたる。政令が及ぶ範囲は、大和、河内、和泉、紀伊などの行宮を中心とした地方のほか、九州の征西府や四国の河野氏の勢力域に限られた。将軍足利義満のもとで隆盛を極める幕府との実力の差は、否定しがたかった。宗良親王や懐良親王が世を去り、威勢を失った南朝にとって、和平による合一は避けられない状況になっていた。
1392年(元中9年、明徳3年)、和泉と紀伊の守護である大内義弘が、南朝の吉田宗房や阿野実為と接触して、下交渉を始めた。10月には、義満から吉田兼熙を通じて、両朝の講和の条件が示され、天皇はついにこれを受け入れた。これが明徳の和約である。同じ月の28日に、南朝の君臣は神器を奉じて吉野を出発し、閏10月2日に京都の大覚寺に到着した。同月5日、三種の神器だけが大覚寺から北朝の後小松天皇の内裏に移された。こうして南北朝時代は終わり、皇統は北朝に統一された。南朝の元号の元中はなくなり、天皇の弟で皇太子の位にあった護聖院宮は、事実上その位を廃された。後亀山天皇は、のちに、合一を決断した理由について、自らの運命をひたすら天道神慮に任せ、民間の憂いを除くためだったと述べている。合一ののち、大覚寺を仙洞とした天皇は、「大覚寺殿」と称され、幕府に扶養される立場に甘んじなければならなかった。
1394年2月6日、天竜寺で初めて義満と面会し、同月23日、「即位しなかった天皇」として、太上天皇の尊号を贈られた。これは、幕府が旧北朝と後亀山天皇の双方の体面を保つために採った苦肉の策であった。1397年11月27日には、尊号を辞退し、義満もこれを了承した。その後は出家して金剛心と号し、隠遁の生活に入った。1410年11月27日、突然嵯峨を出奔して吉野に身を隠し、そこで6年を過ごした。『看聞日記』は生活上の困窮によるものとするが、幕府が講和条件の一つの両統迭立を破って、後小松天皇の皇子躬仁親王、のちの称光天皇の即位を目論んでいたことへの抗議だったとも考えられる。1412年に称光天皇が即位し、1415年にこれに反発した伊勢国司の北畠満雅が蜂起したが、調停によって幕府との和睦が成立した。1416年9月、法皇は大覚寺に戻った。1424年5月10日、大覚寺で亡くなった。75歳とも78歳ともいわれる。皇位を回復しようとする遺志は、子孫の小倉宮に受け継がれ、のちの後南朝による幕府への抵抗運動を呼んだ。1911年に南朝が正統とされ、歴代天皇に加えられることになった。
同じ年に亡くなった人物
- ブラッチョ・ダ・モントーネ (1424年)
- ヤン・ジシュカ (1424年没)
- Isabella of Aragon (1424年没)
- 永楽帝 (1424年没)
- ジャンヌ2世 (オーヴェルニュ女伯) (1424年没)