HISTORICAL PERSON · 1424年没

永楽帝

明の皇帝で、太祖朱元璋の四男。燕王として北平に赴き、兄と共に長城を越える遠征で勝利を重ねた。建文帝の削藩に対し、1399年にわずか800の手勢で挙兵して靖難の役を起こし、1402年に即位した。

生涯
1424年没
死亡地
中華人民共和国(内モンゴル自治区)
出生地
中華人民共和国(南京市)
出典
世界地図
中華人民共和国(内モンゴル自治区)

伝記

永楽帝は、1360年5月2日に生まれ、1424年8月12日に没した明の皇帝である。姓は朱、諱は棣といい、初代皇帝の洪武帝の四男にあたる。在位は1402年7月17日から1424年8月12日まで、廟号は太宗、のちに成祖と改められた。『明史』は母を正妻の馬皇后とするが、実子ではないと見られている。生まれたとき、五色の光が部屋に満ちて数日間消えなかったと伝えられる。

そのころ父は群雄の一人にすぎず、東に張士誠、西に陳友諒という強敵に挟まれていたためか、皇子たちには長らく正式な名がなく、名が付いたのは明の成立直前の1367年である。幼い朱棣は学問に熱心で、経書のほか諸子の学、歴史、天文、地理にも通じ、一度読んだ本を忘れない記憶力を示したという。1370年に父が息子たちを各地に封じると、燕王とされ、実際に北平へ赴いたのは1380年、21歳のときである。北平は元の首都大都の跡地で、最重要の地であった。ここに置かれたことに加え、功臣徐達の娘を妃に迎えたことも、父の高い評価を示すと考えられる。期待に応えて兄の晋王とともに、1390年、1392年、1396年と長城を越えて北方へ遠征し、ことごとく勝利した。父は喜んで「北顧の憂いなし」と述べたと伝わる。

1392年に皇太子の長兄が亡くなると、洪武帝は朱棣を後継にしようと群臣に諮ったが、兄の秦王と晋王はどうするのかと反問されて取りやめ、嘆き悲しんだとされる。後継には亡き皇太子の次男の朱允炆が皇太孫に立てられた。1398年に洪武帝が没して朱允炆が即位すると、建文帝の側近の黄子澄と斉泰らは、諸王を排除する削藩の政策を進めた。まず燕王の同母弟の周王を捕らえて庶人に落とし、連座して数人の王を処分し、燕王には内外から圧力を加えた。燕王は狂人のふりをして難を逃れようとしたが露見し、追い込まれて、1399年7月に挙兵を決めた。手元の兵はわずか800だったが、政府軍の将軍を誘殺して北平を手中に収めた。挙兵にあたっては、謀反ではなく、君側の奸である黄子澄と斉泰を討つのが目的だと述べ、軍を奉天靖難軍と称した。これが靖難の役の名の由来である。

その後、2年以上にわたって戦い、耿炳文や李景隆の率いる大軍を破る一方で、東昌の戦いのように、挙兵以来初めて大敗を喫した場面もあった。膠着した戦況の中、建文帝の側にいた宦官が南京の守りが薄いと通報してきたため、1401年12月に全軍で南京を目指した。1402年6月に長江を渡り、南京に迫ると、金川門を守る李景隆が門を開いて降伏した。建文帝は自ら宮殿に火を放って果てたとされるが、生存説もある。

群臣の薦めで即位すると、永楽帝はまず、建文帝のもとで政治を行った「奸臣」の粛清を行った。黄子澄・斉泰らは処刑され、一族の男子はほとんど殺された。方孝孺には即位の詔を書かせようとしたが、「燕賊簒位」の四文字で答えたため、激怒した帝は一族や門弟を目の前で処刑させ、連座して処刑された者は873名に上り、友人や門生まで含めたことから「十族」と呼ばれた。一方、いち早く忠誠を誓った李景隆や茹瑺らは登用された。また、簒奪の事実を糊塗するため、建文帝の存在を歴史から消す「革除」を行い、建文4年を洪武35年と呼び替え、翌1403年を永楽元年とした。

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