伝記
ジャン・ド・ベタンクールは、1362年にノルマンディー地方のグランヴィル=ラ=タンチュリエールで生まれたフランスの探検家である。カナリア諸島の探索と征服を行った。父はジャン・ド・ベタンクール3世、母はマリー・ド・ブラクモンである。1364年5月、父はコシュレルの戦いにベルトラン・デュ・ゲクランの配下として加わって戦死し、ベタンクールはまだ幼児だった。フランス王シャルル5世がナバラ王に味方する勢力の城塞の破壊を命じ、グランヴィルの城塞も1365年に壊された。
1377年、15歳になったベタンクールは、ルイ1世・ダンジューに仕えて従者となった。1387年、シャルル6世はグランヴィル城の再建を許した。1387年から1391年のころには、トゥーレーヌ公ルイ・ド・ヴァロワ(のちのオルレアン公)の法務官の名誉称号も得た。1390年には、トゥーレーヌ公に従い、バルバリア海賊を標的にした、ジェノヴァの商人勢力主導のマフディア十字軍に加わった。ルイ2世が率いる1500人の騎士のフランス軍は、チュニス近郊のマフディアで戦ったが、強力な攻城兵器もなく、内部分裂を起こして、冬が近づくなか、ジェノヴァ側が取りつけた停戦に応じた。ベタンクールはこのとき、ジェノヴァ人からカナリア諸島のことを聞き、貴重な染料の原料になる地衣類がそこで採れることを知ったと考えられる。1392年に、ベタンクールはシャルル6世への臣従を誓い、パリでジャンヌ・ド・ファイエルと結婚した。英仏のどちらに対しても海賊のような行いをしていたとみられる。
1401年12月、遠征の費用をつくるため、ベタンクールはパリの家と家財を売った。伯父のロバン・ド・ブラクモンは、ベタンクールの所領を抵当に7000ポンドを貸した。1402年5月1日、ベタンクールはラ・ロシェルの港から、ガスコーニュ人やノルマンディー人を中心とする一行とともに出航した。同行したガディフェール・ド・ラ・サルは、自分の資金で船を出した。一行にはフランチェスコ会の修道士ピエール・ボンティエとジャン・ル・ヴェリエがおり、この探検は彼らによる『ル・カナリアン』に記された。カディスに着くと、一部の水夫が航海の続行を拒み、出航時に80人だった水夫のうち53人を率いて、ベタンクールはカナリア諸島の有人島のうち最も北のランサローテ島に着いた。島の探索をガディフェールに任せ、カスティーリャ王国の支援を求めるために、いったんカディスへ引き返した。
その間に、隊内ではガディフェールともう一人の指揮官ベルタン・ド・ベルヌヴァルとの主導権争いが起こった。ベルタンがノルマンディー人とガスコーニュ人を対立させ、先住民の統治者も巻き込んで、ひと月ほどで多くの死傷者が出た。ガディフェールは、そのあいだにフエルテベントゥーラ島を制圧し、ほかの島を探索していた。1404年にベタンクールが隊に戻ると、島の情勢はようやく落ち着き、二人はベタンクリアの町を建設した。その後、カスティーリャ王国の命でフエルテベントゥーラ島(1405年)とエル・イエロ島を征服し、先住民の勢力を追い払った。支援者のエンリケ3世から称号を与えられたが、ベタンクールは、あくまでもエンリケ3世の臣下だと考えていた。数年後、グラン・カナリア島南部の戦いで先住民の集団を破り、カナリア王の称号を得た。
ベタンクールは、1425年に生地で死去したとも、1422年に没して生地の教会に葬られたともいわれる。子がなく、領主の座は甥のマチオ・ド・ベタンクールが継いだ。その子孫は、カナリア諸島で勢力を保った。
同じ年に亡くなった人物
- マヌエル2世パレオロゴス (1425年没)
- ボンヌ・ダルトワ (1425年没)
- Odette de Champdivers (1425年)
- ヴァシーリー1世 (1425年没)
- ロレンツォ・モナコ (1425年没)
同じ地域に関係する人物
- ルイ・バスティアン (1963年没)
- シャルロット・ダルブレ (1514年没)
- マフリラ・マヴュバ (1996年没)
- ロバート・ブルワー=リットン (初代リットン伯爵) (1891年没)
- アンリ・ガティアン・ベルトラン (1844年没)