HISTORICAL PERSON · 1425年没

ロレンツォ・モナコ

フィレンツェの画家で、修道生活のかたわら制作を続けた。国際ゴシック様式の影響を受けた聖母戴冠などの祭壇画を多く残した。

生涯
1425年没
死亡地
イタリア共和国(フィレンツェ県 / フィレンツェ)
出生地
イタリア共和国(シエーナ)
出典
世界地図
イタリア共和国(フィレンツェ県)

伝記

ロレンツォ・モナコは、フィレンツェで活動した後期ゴシックから初期ルネサンスにかけての画家で、写本の装飾画家でもある。本名はピエロ・ディ・ジョヴァンニといい、1370年ごろに生まれた。長いあいだシエナの生まれと考えられてきたが、フィレンツェの生まれだった可能性が高い。若いころのことはほとんど分からないが、フィレンツェで画家の修業をしたことは確かである。ジョットの流れを受けて学び、ジョットだけでなく、その後継者であるスピネッロ・アレティーノやアニョロ・ガッディの影響も受けた。のちにガッディとともに、サンタ・マリア・デリ・アンジェリ教会のノビリ礼拝堂の祭壇画のプレデッラを描いている。

1391年、ロレンツォはフィレンツェのサンタ・マリア・デリ・アンジェリ教会のカマルドリ会修道院に入った。1390年に修練士として入り、翌年に誓願を立てたともいわれるが、終生誓願をする前に修道生活を離れたともされる。いずれにせよ、「修道士ロレンツォ」と呼ばれるのが通例だった。修道院では、写本工房の装飾画家と板絵の画家として長く働いた。1390年代には、ロレンツィアーナ図書館に残る3冊の聖歌集を、この修道院のために手がけた。すでに引き締まった線と冷たい色調の、個性的な様式を示している。聖歌も作曲したという。1395年から1402年の聖者たちと聖母子も、そのころの作品である。

1404年ごろから、ロレンツォの様式は国際ゴシックの影響を示すようになる。ロレンツォ・ギベルティや、スペインから戻ったゲラルド・スタルニーナの最初の作品の影響とされる。このころの作品にはアカデミア美術館の『ピエタ』があり、神経質な線と感情の緊張が支配している。金地の数多くの絵では、極端に細長い人物、三日月形の衣のうねる線、鋭い輪郭、金とラピスラズリを惜しまず使った豊かな色、ほのめかす身ぶり、ほとんど消された空間を特徴とする様式をつくった。1407年から1409年ごろの『聖母戴冠』は、ロンドンのナショナル・ギャラリーにある。同じ時期に『聖ベネディクトゥスの生涯の出来事』が描かれた。1409年には『キリスト降誕』を描いた。1410年から1415年には『受胎告知』の三連画を描き、サンタ・トリニタのバルトリーニ・サリンベーニ礼拝堂の聖母伝の壁画にも取り組んだ。この間の1414年には、サンタ・マリア・デリ・アンジェリ教会のために、ウフィツィ美術館にある『聖母戴冠』を描いた。数多くの注文を受けて、ロレンツォは修道院を離れる許可を何度か求めたが、上長はそのたびに許可した。それでも修道士としての身分を忘れることはなかった。

晩年の作品では、同時代のマサッチョやブルネレスキの革新には従わなかった。空間の表現を写実的にするなど、様式を少しは更新したが、基本的には自分の様式を変えなかった。1420年から1422年の『東方三博士の礼拝』では、遠近法が使われておらず、短縮の表現が不整合で非現実的にみえるが、輪郭線の独創的な使い方により、フィレンツェ絵画のなかでもとりわけ想像力に富んだ作品となった。ロレンツォの作品は1420年代にも人気があった。

ヴァザーリは、ロレンツォが55歳で、原因の分からない感染症で亡くなったと伝えている。膿疱の化膿、壊疽、腫瘍ともいわれ、数か月も病床にあったという。遺体は修道院の参事会室に葬られた。高位の聖職者や著名人だけに認められる扱いで、生前の高い評価がうかがえる。

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