HISTORICAL PERSON · 1428年没

フリードリヒ1世 (ザクセン選帝侯)

マイセン辺境伯で、好戦公と呼ばれた。1423年にアスカーニエン家断絶後のザクセン選帝侯に選ばれ、ジギスムントに従ってフス戦争に参戦した。1409年に創立したライプツィヒ大学は現在も存続している。

生涯
1428年没
死亡地
ドイツ連邦共和国(テューリンゲン州 / アルテンブルク)
出生地
ドイツ連邦共和国(ドレスデン)
出典
世界地図
ドイツ連邦共和国(テューリンゲン州)

伝記

フリードリヒ1世は、1370年4月11日にアルテンブルクで生まれた、ヴェッティン家の公で、マイセン辺境伯、のちにザクセン選帝侯となった人物である。「好戦公」と呼ばれた。父はマイセン辺境伯フリードリヒ3世(厳格伯)、母はカテリーナ・フォン・ヘンネベルクで、その長男にあたる。1381年に父が亡くなったとき、まだ未成年であったため、1390年まで母の後見のもとに置かれた。1382年には、弟のヴィルヘルム2世、ゲオルクとともに、オスターラントやランツベルク辺境伯領、プライセ川流域の地、オーラミュンデ伯領などを受けた。1402年には、ブラウンシュヴァイク=リューネブルク公ハインリヒ1世の娘カタリーナと結婚した。

1407年に叔父のヴィルヘルム1世が亡くなると、弟のヴィルヘルム2世、従弟のテューリンゲン方伯フリードリヒ4世とともに、マイセンを統治した。1409年には、弟のヴィルヘルム2世とともに、ライプツィヒ大学を創立した。ボヘミア王ヴェンツェルが、クトナー・ホラの勅令でチェコ人の学生や教師の組織に3票を与え、ほかの3つの組織には1票ずつしか与えなかったため、ドイツ語を話す教師や学生がプラハ大学を去り、ボヘミアを離れたドイツ人のために作られた大学である。ハイデルベルク大学に次ぐ、ドイツで2番目の伝統ある大学として、現在も続いている。ルクセンブルク家に忠実で、ニュルンベルク城伯フリードリヒ6世とともにドイツ騎士団と組んで、ポーランド王でリトアニア大公のヴワディスワフ2世と戦った。神聖ローマ皇帝の座をめぐる内乱では、プファルツ選帝侯ループレヒト3世を支援したが、1410年にループレヒトが亡くなったのちは、ジギスムントに従い、フス戦争にも加わった。

1423年、アスカーニエン家が断絶したのち、ジギスムントからザクセン=ヴィッテンベルク公位を授けられ、ザクセン選帝侯に選ばれた。この昇進には、ブランデンブルク選帝侯フリードリヒ1世やザクセン=ラウエンブルク公エーリヒ5世が異議を唱えたが、フリードリヒ1世はビンゲンの帝国議会で正式に認められ、ヴェッティン家で最初の選帝侯となった。以後もジギスムントに従軍し、1426年にフス派に大敗するまで支援を続けた。1425年に弟のヴィルヘルム2世が亡くなり、テューリンゲンを除くヴェッティン家の領地の大部分を単独で治めることになった。1427年にはフス派の指導者プロコプ・ヴェルキーに敗れたとされ、その遠征からの帰途、1428年1月4日にアルテンブルクで世を去った。遺体はマイセン大聖堂のヴェッティン家の「侯の礼拝堂」に葬られた。カタリーナとの間には7人の子が生まれ、フリードリヒ2世(1412年-1464年)があとを継いで選帝侯となった。

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