伝記
称光天皇は、1401年5月12日(応永8年3月29日)に生まれた、日本の第101代天皇である。諱は躬仁といい、のちに実仁と改めた。後小松天皇の第一皇子で、母は権大納言日野資教の養女で、日野西資国の実の娘にあたる藤原資子(光範門院)である。1411年11月25日に親王宣下を受け、3日後に11歳で元服し、加冠役は第4代将軍で内大臣の足利義持が務めた。1412年10月5日(応永19年8月29日)に、後小松天皇の譲位を受けて即位した。即位の礼は2年後に行われた。室町幕府の第3代将軍足利義満とは日野家を通じて外戚の関係にあり、叔母の日野業子は義満の正室であった。当初の諱の「躬」の字について、義持が「身に弓があるのは難がある」として鄂隠慧奯に相談し、同じ音の「実」の字にすることにした。
朝廷では後小松上皇が院政を行ったが、称光天皇は生まれつき病気がちで、世継ぎにも恵まれなかった。行状にも問題が多く、太刀や刀、弓をもてあそぶことにこだわり、金の鞭で近臣や女官を打ち据えたため、聞いた義持が1416年に上皇に苦情を申し入れた。1418年7月には、天皇の寵愛を受けた内侍が懐妊すると、これを自分の子ではなく貞成親王の子だと騒いだので、上皇が義持に密かに調査を頼み、義持が事実無根として処理した。1422年に体調を崩して6月には医者も匙を投げるほどになり、義持は9月に上皇の代理として伊勢神宮に参拝して回復を願った。病は奇跡的に回復したが、上皇は後継者の不在を心配して、天皇の弟である小川宮を皇太弟とした。しかし小川宮も奇行が多く、1423年2月には、天皇が飼ってかわいがっていた羊をひどく欲しがり、無理に譲り受けておきながらすぐに撲殺する事件を起こすなど、兄弟の仲も悪かった。この後継者の指名は、かえって上皇と天皇の関係を険悪にした。
1425年2月16日に小川宮が早世して、後継者は再び不在となった。上皇と義持は、後継者を、光厳天皇の流れで唯一の男児であった伏見宮貞成親王に求めた。貞成は54歳になる同年4月に親王宣下を受けたが、これで上皇と天皇の確執が再燃し、天皇は上皇への反発から、6月28日に内裏を出奔しようとして、上皇の要請を受けた義持に慰留された。天皇と上皇の確執を調停できるのは、義持のほかになかった。貞成は閏6月3日に出家せざるをえなくなった。7月25日に天皇が重病に倒れ、義持らが慌てて参内した。7月29日、天皇は死を覚悟したのか、生母資子の院号定を行うよう勅定を出したが、上皇は「軽率な行い」だとして難色を示した。義持の説得で、資子には准三后宣下と、光範門院の女院号が定められた。8月1日には重篤となり、義持が葬儀の準備を始めるほどだったが、8月2日には快方に向かい、8月5日に全快した。この病は風邪だったという。
天皇には目立つ実績がなく、室町幕府の意向で代始改元も認められなかった。改元が実現したのは在位16年目で、その3か月後に崩御した。1428年7月6日に危篤となり、同月20日(1428年8月30日)に28歳で崩御した。皇統の断絶が確実となったことで、後南朝の勢力が皇位を取り戻す動きを見せ始めた。崩御後は、三従弟で貞成の男子である彦仁王が上皇の猶子となって即位し、後花園天皇となった。追号の「称光院」は、光厳院の先例にならい、儒者の勘申によって定められ、後小松上皇がいくつかの案から選んだという。称徳天皇と光仁天皇の一字ずつを取ったとする説もあれば、光厳天皇にあやかったとする研究者もいる。陵は京都市伏見区の深草北陵に定められている。
同じ年に亡くなった人物
- ザヴィシャ・チャルニ (1428年没)
- フリードリヒ1世 (ザクセン選帝侯) (1428年没)
- 辺景昭 (1428年)
- マシュトラ (1428年没)
- 足利義持 (1428年没)