伝記
ジャンヌ・ダルクは、ユリウス暦1412年ごろに生まれ、1431年5月30日に火刑で世を去った15世紀フランス王国の軍人である。「オルレアンの乙女」とも呼ばれ、フランスの国民的ヒロインであり、カトリック教会の聖人でもある。生まれたのは、当時のバル公領にあった東部の村ドンレミで、父ジャック・ダルクと母イザベル・ロメの娘だった。両親は20ヘクタールほどの土地を持ち、父は農業のかたわら租税徴収係と村の自警団団長を務めた。ドンレミは周囲をブルゴーニュ公領に囲まれながら、フランス王家に素朴な忠誠心を抱く辺鄙な小村で、ジャンヌの幼少のころには何度か襲撃に遭い、焼き払われたこともあった。
背景には百年戦争がある。1337年に始まった戦争のほとんどはフランス国内で戦われ、イングランド軍の焦土作戦と黒死病でフランスは疲弊していた。国王シャルル6世は精神の病に悩まされ、その弟オルレアン公ルイとブルゴーニュ公無怖公ジャンが対立し、1407年にオルレアン公が暗殺されると、アルマニャック派とブルゴーニュ派の争いが激しくなった。1415年にはアジャンクールでイングランド軍が大勝し、1420年のトロワ条約では王位がイングランド王に譲られることになった。1429年の初めにはフランス北部のほぼすべてがフランスの手を離れ、要衝オルレアンもイングランド軍に包囲されて陥落は時間の問題と見られていた。
ジャンヌは異端審問の場で、12歳ごろに初めて神の声を聴いたと証言している。大天使ミカエル、アレクサンドリアのカタリナ、アンティオキアのマルガリタの姿を幻に見て、イングランド軍を追い払い、王太子をランスへ連れて行って即位させよという声を聴いたという。1428年、16歳のとき、ヴォークルールの守備隊隊長ボードリクールに王太子のいるシノンへ赴く許可を願ったが、嘲笑されて追い返された。翌1429年1月に再び訪れ、オルレアン近郊のニシンの戦いでフランス軍が敗れると予言し、それが的中したという報告を受けて、ボードリクールはシノン行きを許した。男装したジャンヌは敵の占領地を通ってシノンに着き、余人を払って会った王太子に強い印象を与えた。
王太子の顧問たちは、ジャンヌが異端や魔女と告発される危険を恐れ、身元調査の審議会とポワチエでの教理問答を命じた。1429年4月、審議会はその暮らしぶりを高潔で誠実と認め、神学者たちも啓示の有無は判断できないとしつつ、有利な臆測を王太子に伝えた。ジャンヌは寄付で甲冑、馬、剣、旗印を整え、ジル・ド・レらとともに4月29日にオルレアンへ到着した。古参の指揮官たちから冷ややかに迎えられ、攻略軍を率いるデュノワにも作戦会議への出席を認められなかったが、それを押して会議や戦いに加わった。わずか9日間で兵士の士気を高めて名声を得、続く戦いにも貢献して劣勢を挽回し、王太子はランスで即位してシャルル7世となった。ジャンヌが軍事指揮官として優れていたか、旗手として士気を鼓舞したにとどまるかは、歴史家の間で論争がある。
その後ジャンヌはブルゴーニュ公国軍の捕虜となり、身代金と引き換えにイングランドへ引き渡された。ボーヴェ司教ピエール・コーションの異端審問で不服従と異端の判決を受け、19歳で火刑に処された。死後25年、教皇カリストゥス3世の命による復権裁判で無実と殉教が宣言され、1909年に列福、1920年に列聖されてフランスの守護聖人の一人となった。
同じ年に亡くなった人物
- マルティヌス5世 (ローマ教皇) (1431年没)
- コンスタンティン・コステネチキ (1431年)
- シャルル2世 (ロレーヌ公) (1431年没)
- ムハンマド8世 (1431年没)
- Bernard I of Baden-Baden (1431年)
同じ地域に関係する人物
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- ロバート・クレイマー (1999年没)
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