HISTORICAL PERSON · 1431年没

マルティヌス5世 (ローマ教皇)

コンスタンツ公会議で教会大分裂の解消後に選ばれたローマ教皇。名門コロンナ家出身で、1420年にローマ入りして旧サン・ピエトロ大聖堂などを修復した。フス派討伐の十字軍は敗れ、新たな公会議も開けなかった。

生涯
1431年没
死亡地
イタリア共和国(ローマ県 / ローマ)
出生地
イタリア共和国(ジェナッツァーノ)
出典
世界地図
イタリア共和国(ローマ県)

伝記

マルティヌス5世は、コンスタンツ公会議で教会大分裂が解消されたのちに選ばれたローマ教皇である。本名はオットーネ・コロンナで、生年は1368年とも1369年ともされ、ローマの名門コロンナ家の出身である。家柄に加えて有能な実務家であったため、教皇ボニファティウス9世に仕え、1405年ごろにインノケンティウス7世によって枢機卿に上げられた。1409年のピサ教会会議に参加して対立教皇アレクサンデル5世を支持し、その後継のヨハネス23世にも忠誠を誓った。ヨハネス23世のもとで一族は特権を得たが、オットーネ自身は1411年にグレゴリウス12世から破門されている。

1414年にローマ王ジギスムントの後押しで始まったコンスタンツ公会議では、グレゴリウス12世、ベネディクトゥス13世、ヨハネス23世の3人の教皇が退位あるいは廃位された。1417年11月11日、23人の枢機卿と30人の代表による選挙で49歳のオットーネが選ばれ、その日の聖人にちなんでマルティヌス5世を名乗った。これにより1378年から続いた大分裂は事実上終わり、教皇は1418年4月に公会議を閉会させた。

当時のローマは荒廃していたうえ、ジギスムントと対立するナポリ王家が押さえていたため、教皇はフィレンツェなどに滞在した。ナポリ女王ジョヴァンナ2世に戴冠式を行うことで和解し、安全を確保して1420年9月にようやくローマに入った。そこで秩序の回復に努め、旧サン・ピエトロ大聖堂やラテラノ宮殿などの修復を進め、トスカーナ派の名匠たちも招いて、ローマ・ルネサンスの端緒を開いたとされる。メディチ家を信任して教皇庁の総財務管理者の地位を続けさせ、1424年にはメディチ家当主ジョヴァンニ・ディ・ビッチにモンテ・ヴェルデ伯の位を授けようとしたが、彼は断ったという。期待された大規模な教会改革は実行されなかった。

ヨーロッパには難題が残っていた。百年戦争に対しては1418年と1422年にフランスへ和平使節を送ったが効果はなく、むしろイングランドとブルゴーニュの利害に沿う動きが多かった。1428年にグロスター公とジャクリーヌの結婚を無効としてからは、枢機卿とともに和平へ動いたが、在世中に具体的な検討には至らなかった。フス戦争では、1420年3月にフス派討伐の十字軍勅書を出したが、諸侯の軍は敗北を重ね、1431年8月には十字軍がフス派の軍を前に戦わずに敗走した。公会議の招集については、1423年にパヴィアでの開催を宣言したが、疫病でシエナに移され、参加者が集まらず開かれなかった。最終的にバーゼルでの開催が決まり準備が進められたが、開会を待たず1431年2月20日に卒中で亡くなった。東ローマ帝国との対話も試みられたが、実を結ばなかった。

即位前は穏やかで公会議主義に柔軟と見られていたが、選出後は公会議が教皇権を制限することに反対し、財政再建のため教皇庁の税制と規律の改革を進めた。枢機卿たちは強硬な姿勢を恐れ、教皇の前では縮み上がって赤くなったり青くなったりしたと伝えられる。一方、対立教皇クレメンス8世が1429年に退位して忠誠を誓うと、パルマ・デ・マヨルカ司教に任命した。ユダヤ人への迫害には反対し、1422年と1429年に反ユダヤ的な説教を非難した。

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