伝記
ガスパリーノ・バルツィッツァは、イタリアの文法学者であり教師である。1360年ごろに生まれ、1431年に没した。キケロの作品に触発された新しい書簡体のラテン語の文体を広めたことで知られる。ピエル・パオロ・ヴェルジェリオ(父)とともに、パドヴァにおける人文主義の発展に影響を与えた。最初期のイタリアの人文主義者の1人として、ラテン文学の復興をめざし、修辞学、文法、道徳哲学を教えた。ベルガモのガスパリヌスとも呼ばれる。
ベルガモ近郊のバルツィッツァ村で、ガスパリーノ・ディ・ピエトロブオーノとして生まれた。パヴィアで文法と修辞学を学び、そのまま1403年から1407年まで同地で教えた。その後ヴェネツィアに移り、バルバロ家の家庭教師を務めた。ヴェネツィアでは学校を開く後ろ盾を見つけられず、1407年から1421年までパドヴァで教えた。この時期が最も多くの著作を書いた時期で、教師としても学者としても名声が定まった。1408年の前半、政治的な理由でベルガモを追われた兄ジャコモが、妻と8人の子を連れてヴェネツィアに来た。ガスパリーノの口添えでジャコモは仕事を得たが、1410年8月に亡くなり、残された妻子の面倒はガスパリーノが見ることになった。1411年にはハンガリーの侵入で経済的な苦しさがさらに増し、2月に一族の一部をフェラーラに移した。
1413年9月16日、ガスパリーノは学芸の博士号を得た。1414年8月13日には、ヨハネス23世の使徒座秘書官に任じられた。1416年にパドヴァの市民、1417年6月6日にヴェネツィアの市民の称号を授けられた。教皇マルティヌス5世の秘書官も務め、その職務でコンスタンツ公会議に出席した。1418年には妻ルクレツィアが出産のさなかに亡くなった。まもなく修辞学の教授に任じられ、セネカ、キケロ、ウェルギリウス、テレンティウスなどのラテン語の著者を専門とした。また、人文主義の課程をもつ初等学校も設けた。ヴィットリーノ・ダ・フェルトレとレオン・バッティスタ・アルベルティは、少年時代の教育を彼に負っている。「パノルミタ」と呼ばれたアントニオ・ベッカデッリや、フランチェスコ・フィレルフォ、ステファノ・フィエスキも教え子である。
のちにフェラーラでも教え、ミラノのフィリッポ・マリーア・ヴィスコンティの招きで、1418年にミラノに初等学校を開いた。学校はパドヴァの学校と同じ形式で運営された。ミラノでの授業は1421年10月27日に始まり、ヴィスコンティ家の宮廷の弁論家も務めた。1431年2月ごろ、ミラノで亡くなった。その後、ロレンツォ・ヴァッラが、パヴィアの修辞学の講座で彼を継いだ。
妻ルクレツィア・アッリアルディとの間に、息子ギニフォルテ・バルツィッツァ(1406年ごろ生まれ、1463年没)がいた。ギニフォルテは優れた学者、著述家となり、アラゴン王アルフォンソの顧問となった。一方、ガスパリーノ自身の主な著作は書簡集で、1470年にパリでヨハン・ハインリンにより印刷され、フランスで最初に印刷された本となった。この書簡集は、技巧に富み優雅なラテン語の手本を示し、散文の作文を教えるためのものだった。ガスパリーノにはほかに、1420年ごろの『作文論』、ラテン語の正書法を扱った最も重要な著作『正書法』、1417年から1418年の『小語彙集』などの著作がある。
同じ年に亡くなった人物
- シャルル2世 (ロレーヌ公) (1431年没)
- ジャンヌ・ダルク (1431年没)
- コンスタンティン・コステネチキ (1431年)
- ヌノ・アルヴァレス・ペレイラ (1431年)
- ムハンマド8世 (1431年没)
同じ地域に関係する人物
- ヴィルヘルム・ケルナー (1925年没)
- ステーファノ・ヴィスコンティ (1327年没)
- エルネスト・テオドロ・モネータ (1918年没)
- エンツォ・ベアルツォット (2010年没)
- カルロ・アイロルディ (1929年没)