HISTORICAL PERSON · 1432年没

アレクサンドル1世 (モルダヴィア公)

善良公と称されたモルダヴィア公。1400年にワラキア公ミルチャ老公の支援で即位し、首都スチャバに府主教座を設置した。ポーランドと友好を保ってハンガリーの圧力を退け、30年余り安定して統治した。

生涯
1432年没
死亡地
ルーマニア(スチャヴァ県 / スチャヴァ)
出生地
—
出典
世界地図
ルーマニア(スチャヴァ県)

伝記

アレクサンドル1世は、15世紀のモルダヴィア公で、「善良公」と称される。1375年に生まれ、1432年1月1日に没した。モルダヴィア公ロマン1世と妻アナスタシアの子で、ボグダン家の一員である。モルダヴィアの君主は、貴族(ボヤール)のなかから選ばれる選挙制であり、君主はしばしばハンガリー、ポーランド、オスマンなど近隣の強国の支援を頼りに、即位し、位を保った。

アレクサンドルは、1400年、ワラキア公国の老公ミルチャの支援を受けて、モルダヴィア公に即位した。彼は、イウガ・オログルの後を継いだ。ミルチャの宮廷に避難していたことがあったという。1407年に弟ボグダンが亡くなるまで、公位を弟と分け合った。同じ1400年には、トレビゾンドから多額の費用をかけて聖ヨアン・ツェル・ノウの聖遺物を取り寄せ、スチャバのミラウツィ教会に安置させた。1401年には、コンスタンティノープル総主教の許可を受け、首都スチャバに府主教座を設置することに成功した。のちに下モルダヴィアのロマンと、上モルダヴィアのラドウツィに、正教会の主教座を設けた。ビストリツァ、モルドヴィツァ、カプリアナ、ヴァルザレシュティなどの修道院を建て、多くの寄進を行った。国が栄えると、職人や商人が集まった。トランシルヴァニアからセーケイ人やワラキア人の農民が移住させられ、貴族の領地に入った。カトリック教徒が増えたため、1413年ごろ、バイアにカトリックの司教座を設けることになった。

旧宗主国のハンガリーのジギスムントが、モルダヴィアへの宗主権を復活させようとするなか、アレクサンドルは、北方の強国ポーランドと友好を保つことが自国の利益になると考えた。ポーランドの宗主権を認める条約は、1404年、1407年、1415年、1419年に更新された。ポーランド、リトアニア連合軍とドイツ騎士団との戦いには、援軍として参戦し、モルダヴィア軍はグルンヴァルトの戦いで、ポーランド側の勝利に貢献した。1412年、ハンガリーとポーランドが接近し、ハンガリーの対オスマン戦にモルダヴィアが協力しないなら、モルダヴィアを両国で占領、分割するというルブリン条約を結んだが、アレクサンドルの勢威は強く、これを阻止した。

1422年には、ミルチャ老公の死後に混乱したワラキアの継承争いに介入し、トルコ人の後ろ盾をもつ候補を支持して、ハンガリー王の推す候補に対抗した。1426年5月には、トルコと戦うためモルダヴィアを通るポーランド軍に、通行の許可を与えた。1431年、ついに自分の候補アルデアをワラキア公に立て、アルデアはその恩義に感謝して、アレクサンドルの名を名乗った。

貴族への多くの寄進にもかかわらず、貴族たちは国内での影響力を強めようとし続け、この動きは治世の終わりごろに強まった。アレクサンドルは1432年1月1日に没し、ピアトラ・ネアムツ近郊のビストリツァ修道院に葬られた。息子のイリアシュ1世が跡を継いだ。30年余りの治世は安定していたが、死後は息子や孫たちによる公位争奪戦が激しくなり、貴族の派閥対立に外国勢力の介入も加わって、公位は頻繁に入れ替わり、公国は四半世紀のあいだ不安定になった。娘はミルチャの子ヴラド2世のもとに嫁ぎ、小説『吸血鬼ドラキュラ』の伯爵のモデルとして知られるヴラド・ツェペシュは、アレクサンドルの外孫にあたる。

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