伝記
シュテファン3世は、15世紀のモルダヴィア公で、大公(チェル・マーレ)と称される。祖父アレクサンドル善良公の死後、四半世紀にわたって続いた混乱を収拾して長期政権を築き、従兄のワラキア公ヴラド・ツェペシュやハンガリーのフニャディ・ヤーノシュと並んで、反オスマン帝国の闘争を展開した。ルーマニア正教会の聖人でもある。
1433年ごろ、モルダヴィア公子ボグダン2世の子として生まれた。1449年にボグダン2世が公に即位したが、公権力の強化策が地主貴族の反発を招き、1451年に暗殺された。公位は叔父のペトル・アロンが継ぎ、シュテファンは、亡命中だったワラキアの前公で従兄のヴラドとともに、トランシルヴァニア侯フニャディ・ヤーノシュのもとへ逃れた。1456年にワラキア公位を奪還したヴラドの支援を受け、1457年にモルダヴィア公に即位した。敗れたペトル・アロンはポーランド、ついでトランシルヴァニアに亡命して返り咲きを狙い、モルダヴィアと両国の関係を一時悪化させた。1467年12月15日のバイアの戦いで、父の仇であるペトル・アロンを捕らえ、のちに処刑している。
即位後は中央集権政策を進めたが、対オスマン融和策と、ドナウ河口の要衝キリアの帰属をめぐって、ヴラドとは緊張関係となった。1462年6月、ワラキアとオスマンの戦争中にキリアを攻撃したが、負傷して退却した。このためヴラドは貴重な兵を東方に割くことになり、ワラキアの抗戦力は低下した。ヴラドはのちに敗れてトランシルヴァニアに亡命し、ハンガリー王マーチャーシュ1世に謀反の疑いをかけられて幽閉された。1465年1月には、ヴラドの実弟ラドゥ3世からキリアを奪っている。ワラキアではラドゥ3世に対抗してバサラブ3世ライオタを支援し、1473年11月に公位に就けたが、12月にはラドゥ3世に公位を奪還され、両者は交互に公位を奪い合った。この間の1475年、オスマン軍にバスルイで勝利し、ローマ教皇から「キリストの戦士」と称えられた。オスマンへ接近し始めたバサラブ3世を見限ると、かつての盟友ヴラドの釈放とワラキア公復帰をマーチャーシュに働きかけ、1476年、ヴラドは3度目のワラキア公即位を果たした。遅れてモルダヴィア軍も到着したが、両軍は国内事情から引き上げざるをえなくなり、シュテファンはヴラドのためにモルダヴィア兵200人だけを残した。ヴラドは同年暮れに戦死した。
その後もオスマンと戦い続け、在位は50年近くに及んだ。1476年にはメフメト2世にヴァレア・アルバの戦いで敗れたが、物資不足や疫病などで相手が退却した。1486年からは再びオスマンへ貢納するようになり、1503年には港の喪失を認めざるをえなかった。晩年は、子で共同統治者のボグダン3世が政務に関わった。
シュテファンは、ルーマニア正教会に多数の教会・修道院を献じたことでも知られる。その一つであるプトナ修道院は、モルダヴィアの文化・芸術・宗教面で重要な存在で、墓所もこの修道院内にある。1504年7月2日に死去し、公位は息子のボグダン3世(独眼公)が継いだ。現代のルーマニア人は民族的英雄の一人と見なし、1992年にはルーマニア正教会によって聖人とされた。
同じ年に亡くなった人物
- アナカオナ (1504年没)
- 崔溥 (1504年没)
- フィリッピーノ・リッピ (1504年没)
- Andrea Aleksi (1504年没)
- エーバーハルト2世 (ヴュルテンベルク公) (1504年没)
同じ地域に関係する人物
- ボグダン1世 (1367年没)
- アレクサンドル1世 (モルダヴィア公) (1432年没)