伝記
アナ・エレノア・ルーズベルトは、1884年10月11日にニューヨークで生まれ、第32代アメリカ大統領フランクリン・ルーズベルトの妻として、また国連代表、婦人運動家、文筆家として知られる人物である。父エリオットは第26代大統領セオドア・ルーズベルトの弟で、エレノアはセオドアの姪にあたる。両親とも大富豪の名門で、金銭的には恵まれていたが、父はハンサムでありながらアルコール中毒となり、母は美人だが冷酷だったとされ、家庭環境は理想とはかけ離れていた。両親と早くに死別したため、母方の祖母のもとで家庭教師から厳格に育てられた。
その後イギリスに渡り、ロンドン南西部の女学校に1899年から1902年まで通った。校長でフェミニストとしても有名だったマリー・スーヴェストゥールの進歩的な考えから、大きな影響を受けた。帰国後はニューヨークで、貧しい移民の子どものための学校で働き、人生で初めて貧困の現状を目にして衝撃を受けた。この体験が、彼女が生涯人権のために働いた原動力だったともいえる。1905年に、父の五いとこにあたるフランクリン・ルーズベルトと結婚し、5男1女をもうけた。もともと内気で子供の教育に熱心な妻であり母だったが、夫が政界に入ると、ニューヨーク州民主党の婦人部長を務めたことをきっかけに、家庭の外で活躍を始めた。1918年に夫と秘書との不倫を知って、これを容認したことも、政治への情熱の一助になったかもしれないと評される。1921年に夫がポリオにかかって政治活動を断念しようとした時には、精神的に立ち直るために政治こそが必要だと励まし、復帰の原動力となったことはよく知られている。
1933年3月4日に夫が大統領に就任すると、3選されたホワイトハウスの12年間、エレノアは夫の政策に大きな影響を与えた。ルーズベルト政権の女性やマイノリティに関する進歩的な政策は、ほとんどが彼女の発案によるものだといわれる。第二次世界大戦中に夫が推し進めた日系アメリカ人の強制収容には反対した。この間に多くの友人を得たことは、夫の死後の「第二の人生」を開く大きな財産となった。
1945年4月12日に夫が死去すると、ニューヨーク州ハイドパークの私邸に退き、静かな余生を送るつもりだった。しかし後を継いだトルーマン大統領の要請で、国際連合の第1回総会代表団の一員に指名され、1946年にロンドンで総会に参加した。そこで人権委員会の委員長に選ばれた。人権委員会は世界人権宣言の起草に着手し、宣言は1948年12月に国連総会で採択された。彼女は1952年までアメリカの国連代表を務めた。退任後の1953年からは各国の女性団体に招かれ、女性の地位向上のために活躍し、同年には来日して各地で講演したほか、昭和天皇と香淳皇后にも会った。1957年にはソ連を訪れ、フルシチョフと会談している。政治的には民主党のリベラル派に近く、人種差別問題には果敢な態度をとった。1960年の大統領選挙では、ケネディが冷戦初期に赤狩りに加担していたことから、不支持を表明していた。これは、リベラル派として表現の自由や思想の自由を最大限に尊重していたからだった。1962年11月7日、ニューヨーク市の自宅で78歳で死去した。
同じ年に亡くなった人物
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