HISTORICAL PERSON · 1433年没

ジョアン1世 (ポルトガル王)

アヴィス朝の創始者でポルトガル王(在位1385〜1433年)。エンリケ航海王子の父。政治・軍事で成功を収め、ポルトガル全盛期の基礎を築いて「大王」と呼ばれた。

生涯
1433年没
死亡地
ポルトガル共和国(リスボン県 / リスボン)
出生地
ポルトガル共和国(リスボン)
出典
世界地図
ポルトガル共和国(リスボン県)

伝記

ジョアン1世は、1357年に生まれ、1433年8月14日に没したポルトガル王で、アヴィス王朝の創始者である。在位は1385年から1433年に及び、ポルトガル史上最も長い治世とされる。国王ペドロ1世の庶子で、母は妾妃とされ、先王フェルナンド1世の異母弟にあたる。1364年にアヴィス騎士団の団長に任じられたとされ、武勇に優れて青年期を騎士団総長として過ごした。政治と軍事の多くに成功して全盛期の基礎を築いたことから、「大王」とも呼ばれ、正しい王として「良き記憶の王」の異名でも記憶される。

1383年、異母兄フェルナンド1世が没すると、娘ベアトリスが女王となり、その母レオノール・テレスが摂政に就いた。レオノールと貴族の専制が始まると、戦争に疲弊した都市の下層民や職人の反乱が各地で起こり、彼らは寵臣のオーレム伯アンデイロを悪政の元凶として敵視した。ジョアンは反王妃派に支持されて基盤を築いた。ポルトガルの乱れを見たカスティーリャ王フアン1世は、ベアトリスの夫であることを理由に侵攻した。大法官アルヴァロ・パイスに説得されたジョアンは、一部のリスボン市民と協力してアンデイロを殺害した。1384年1月にフアン1世は、王子ミゲルこそ正当な後継者だとして再び侵攻し、レオノールはサンタレンまで来たフアン1世に統治権を委ねたため、国内はカスティーリャ派とジョアンを掲げるアヴィス派に分かれた。

カスティーリャ軍はリスボンを包囲したが、ジョアンらは耐え抜いて撃退し、救国の英雄として讃えられた。レオノール・テレスは摂政を辞したが、フアン1世に背いたことが発覚し、トルデシリャスの修道院に幽閉された。1385年、ジョアンはコインブラで開かれたコルテスで、カスティーリャ軍を撃退した功績を評価されて王に選ばれた。同年8月、再び侵攻したフアン1世を、国の大元帥ヌーノ・アルヴァレス・ペレイラやイングランドの同盟者の助けを得てアルジュバロータの戦いで大いに破り、ベアトリスは退位し、2年余りに及んだ戦いと内戦は終結した。この勝利を記念して建てられたバターリャ修道院には、王と王妃、その直系の子孫が葬られている。

カスティーリャの背後にフランスがいることに対抗し、1386年にイングランドとウィンザー条約を結んで同盟した。1387年2月2日にはその証としてジョン・オブ・ゴーントの娘フィリッパとポルトで結婚した。生まれた王子たちはいずれも優秀で、後に「輝かしき世代」と呼ばれた。長男ドゥアルテは王位を継ぎ、ペドロは学問と外国旅行を好み、後に卓越した政治家となって摂政を務め、エンリケは「航海王子」の異名で知られ近代探検の父と呼ばれる。カスティーリャとは1387年に最初の休戦が結ばれ、1396年から1397年の小競り合いを経て休戦が重ねられた。

1411年にカスティーリャと和睦して背後の脅威を除くと、積極的な拡大に乗り出した。当初はグラナダへの進出も考えたが、半島内での拡大はカスティーリャを刺激すると懸念し、アフリカへと向かった。1415年には王子たちとともに北アフリカに進出し、戦略上の要地セウタの攻略が、ポルトガルの海外進出の始まりとなった。この年から長男ドゥアルテを共同統治者とした。1433年、77歳で亡くなった。

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