HISTORICAL PERSON · 1433年没

バイスングル (シャー・ルフの子)

ティムール朝の王族でシャー・ルフの三男。宮廷に書家や画家を厚く保護し、『シャー・ナーメ』などの豪華な写本制作に情熱を注いだ。

生涯
1433年没
死亡地
アフガニスタン・イスラム共和国(ヘラート州 / ヘラート)
出生地
アフガニスタン・イスラム共和国(ヘラート)
出典
世界地図
アフガニスタン・イスラム共和国(ヘラート州)

伝記

バイスングルは、1397年にヘラートで生まれ、1433年にヘラート近郊のバーゲ・サフィード宮殿で没したティムール朝の王族である。ギヤースッディーン・バイスングルといい、ティムールの孫にあたる。イランとマー・ワラー・アンナフルの支配者シャー・ルフの子で、母はその最も有力な妃ガウハール・シャード・アーガーである。シャー・ルフの三男とされ、兄には、父の跡を継いだことで名高いウルグ・ベクがいる。芸術と建築の庇護者として知られ、ペルシア細密画の最大の庇護者であり、『バイスングル版シャー・ナーメ』などを作らせたほか、自らも優れた書家であった。

ペルシア語、アラビア語、母語のチャガタイ語に通じていた。ペルシアの歴史家を庇護し、そのひとりハーフィズ・アブルーは、著作『バイスングル史精粋』を彼に捧げた。1417年には、すでにヘラートの総督として暮らしていた。1420年か21年に、父シャー・ルフとともに黒羊朝への遠征に従軍し、タブリーズの攻撃を命じられた。バイスングルはタブリーズをいったん奪い、ジャライル朝のもとで保護を受けていた書家や画家、写本を伴ってヘラートに帰還した。このタブリーズの芸術家たちを、彼は、すでに抱えていたシーラーズの芸術家たちに加えてヘラートに住まわせた。両者の様式が合わさって、彼らはイランで最も重要な芸術家の一派となった。1431年には、アストラバード(グルガーン)の総督に任じられた。

バイスングルは、詩、絵画、音楽に深い造詣があり、宮廷で学者や芸術家を厚く庇護し、とくに写本の作成に情熱を注いだ。宮廷では、書家、画家、鍍金師、彩飾家、製本職人など23人の専門家が写本の制作にあたり、その写本は、紙質、挿絵、装丁のいずれも高い品質を誇った。彼自身も写本の作成に携わり、代表作には、『シャー・ナーメ』『カリーラとディムナ』『薔薇園』の写本がある。『カリーラとディムナ』は、イスラーム世界で多くの写本が作られたが、バイスングルの宮廷で作られたものは、とくに質が高く、挿絵の色彩や、ページの余白にまで及ぶ表現が評価されている。写本のほかにも、絨毯、織物、タイル、宝石、天幕などの工芸品や、庭園の設計が、宮廷で行われた。東洋史研究者の間野英二は、バイスングルの写本事業と、ヘラートで行われた建築事業との関連を指摘する。それによれば、高名な技術者たちがシャー・ルフとガウハール・シャードの建築事業に動員されていたため、彼は建築事業を行えず、やむなく写本の制作に携わったという。

現代の歴史家のなかには、バイスングルを、兄のウルグ・ベクよりも優れた政治家とみる者もある。父が重い責任を負わせなかったため、ヘラートに優美なマドラサを建て、古い書物を集め、芸術家を集め、酒を飲むことができたのだという。彼は酒を好み、ワインを愛飲したが、その量が度を越していたために健康を害し、36歳の若さで早世した。妻は5人いて、アミール・チュルパン・カウチンの娘ジャン・マリク・アーガー、ホラズム出身のガウハール・ナサブ・アーガーらがいた。息子は、ジャン・マリクとのあいだにアラー・アッダウラ、ガウハール・ナサブとのあいだにアブー・アルカースィム・バーブルなど3人、娘は8人であった。

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