伝記
ヨガイラは、1362年頃にヴィリニュスで生まれたとされる人物で、後にポーランド王ヴワディスワフ2世ヤギェウォとなった。生年は明らかでなく、かつては1352年と算出されたが、最近の研究では1362年頃とする説が有力視されている。父はリトアニア大公アルギルダス、母はその二番目の妻でトヴェリ大公の娘ユリアナであり、ゲディミナス朝の末裔にあたる。1377年に大公位を継ぎ、当初は南西部の領地を基盤とし、叔父のトラカイ公ケーストゥティスが北西部の支配を続けた。
治世の初めは不穏だった。異母兄のポラツク公アンドリュスが大公位を狙って挑戦し、1380年にはヨガイラがジョチ・ウルスのママイと結んだのに対し、アンドリュスらはモスクワ大公ドミトリイ・ドンスコイの側についた。ヨガイラは戦場付近でまごついてママイを救援できず、クリコヴォの戦いでママイは敗れた。同じ年、ヨガイラは叔父に対抗するためドイツ騎士団と密約を結んだが、これが発覚してリトアニアは内戦となる。ケーストゥティスはヴィリニュスを包囲してヨガイラを退けたが、1382年にヨガイラが軍を立て直し、交渉に来たケーストゥティスと息子ヴィータウタスを騙してクレヴォ城に投獄した。1週間後にケーストゥティスは死体で見つかり、殺されたと考えられている。ヴィータウタスは騎士団の城へ亡命し、洗礼を受けた。
ヨガイラの母は、ドミトリイ・ドンスコイの娘との結婚と正教への改宗を勧めた。しかし騎士団は正教を異教よりわずかにましな分離派とみなしており、これではリトアニアへの十字軍を止められそうになかった。そこでヨガイラは、カトリックに改宗して11歳の女王ヤドヴィガと結婚するというポーランド側の提案を受け入れた。ポーランドの貴族には、自らの特権の強化、ヤドヴィガの元婚約者の母国オーストリアからの干渉の防止、リトアニアの脅威の除去、ハールィチ・ヴォルィーニの確保といった思惑があったとされる。1385年8月にクレヴォ合同が批准され、1386年2月15日にヨガイラはクラクフのヴァヴェル大聖堂で洗礼を受けてヴワディスワフを名乗った。3月4日にヤドヴィガと結婚し、大司教ボドザンタによってポーランド王として戴冠した。法的にはヤドヴィガの母エリザベタの養子として扱われ、ヤドヴィガからの王位継承権を得た。モルダヴィア公ペトル1世はポーランドの宗主権を認めた。
リトアニアではヴィリニュスの異教の神殿が破壊され、聖なる森が伐採され、蛇が殺された。この信仰の放棄に対する反乱は起きず、貴族とその一族は短期間で洗礼を受けた。1387年にはリトアニア全土がキリスト教に改宗した。ヴワディスワフ2世はヴィリニュス管区の創設を後援し、これをグニェズノ管区のもとに置いたため、ポーランドの教会がリトアニアの教会に助言する道が開け、両国は一層近づいた。騎士団は改宗を見せかけだと非難して侵攻を続けたが、十字軍の大義名分は成り立ちにくくなった。1389年にはヴィータウタスが、自らの世襲財産を犠牲にしてスキルガイラに権力が与えられたことに憤って内戦を起こし、1392年のオストロフの和約で、ヴィータウタスが生涯リトアニア大公として統治することになった。
ヤドヴィガの死後の1399年から、ヴワディスワフ2世は単独でポーランドを統治し、その治世は35年以上に及んだ。1410年のタンネンベルクの戦いで合同軍は騎士団に勝利し、第一次トルンの和約で国境線が固まった。1434年6月1日に没し、彼の名を冠したヤギェウォ朝は1572年までポーランドとリトアニアを支配した。
同じ年に亡くなった人物
- プロコプ・ヴェリキー (1434年没)
- マリー・ド・ベリー (1434年没)
- ユーリー・ドミトリエヴィチ (1434年没)
- アレクサンドラ・アルギルダイテ (1434年没)
- ジャン1世 (ブルボン公) (1434年没)
同じ地域に関係する人物
- ミハウ・コリブト・ヴィシニョヴィエツキ (1673年没)
- ヤロポルク・イジャスラヴィチ (1086年没)
- スタニスワフ・コニェツポルスキ (1646年没)
- Sylvester Sembratovych (1898年没)
- アゲノル・ロムアルト・ゴウホフスキ (1875年没)