伝記
ヤロポルク・イジャスラヴィチは、キエフ大公イジャスラフ1世と、ポーランド王ミェシュコ2世の娘ゲルトルダの子である。1043年または1047年に生まれたとされ、ヴォルィーニ、トゥーロフ、ヴィシゴロドの公位を持った。1054年に父がキエフ大公となったが、その地位は近親の公たちとの争いにさらされた。1067年にはポロツク公フセスラフが父の打倒を図って捕らえられ、翌年にはキエフ市民が蜂起し、解放されたフセスラフを大公に立てた。ポーランドへ逃れた父は、1069年にその援助を受けて復帰した。
ヤロポルク自身の活動としては、1071年にフセスラフをゴロティチェスクで破ったことが知られる。ただしフセスラフはポロツクの支配を保った。1073年、父が弟たちによって再びキエフを追われると、ヤロポルクも父と西方へ逃れた。父はドイツの王へ援助を求めたが得られず、ヤロポルクをローマへ送り、教皇グレゴリウス7世の支援を求めた。教皇の書簡ではヤロポルクはペトロの名で呼ばれ、父と自分の忠誠を教皇に誓い、ルーシの国を聖ペトロの保護に置くよう願ったとされる。父はルーシの王、母は王妃とも呼ばれていた。教皇は父へ二人の使節を派遣した。1075年ごろには、ヴァイマール・オーラミュンデ伯オットー1世の娘クニグンダと結婚した。妻はイリーナの名でも知られる。『ゲルトルダの祈祷書』には教皇との会見に関する記述があり、ヤロポルクと妻の細密画も含まれている。
父子がキエフへ戻ったのは1076年とも1077年ともされる。ヤロポルクは分領としてヴィシゴロドを与えられた。1078年には父とともに戦いに加わったが、父はこの戦闘で命を落とした。新たに大公となった叔父フセヴォロド1世は、チェルニゴフを自らのもとに残し、ヴォルィーニとトゥーロフ・ピンスクをヤロポルクに与えた。それ以後、トムタラカニ公ロスチスラフの子孫であるリューリクら三兄弟と、ヴォルィーニの領地をめぐる争いが続いた。1084年、三兄弟はいったんペレムィシュルへ移ってから軍を率いて戻り、ヤロポルクを首都ウラジーミル・ヴォリンスキーから追い出した。大公は息子ウラジーミル・モノマフを援軍として送り、首都を返させたが、同時に領内のドロゴブージを、所領を失っていたダヴィドへ与えた。ヤロポルクはこの措置に不満を抱いた。
1085年ごろには大公やモノマフと対立し、ポーランドへ逃れた。1086年に帰還すると、モノマフと和解してウラジーミル・ヴォリンスキーを取り戻した。しかし、リューリクらに対する遠征の途中、ズヴェニゴロド付近で従士ネラデツに裏切られて殺された。没年は1086年とも1087年ともされる。ネラデツがリューリクのもとへ逃げたため、リューリクが首謀者だという噂が流れた。遺骸はキエフのドミトロフ修道院に葬られ、妻はルーシを去った。1088年には、所領の一部を兄弟スヴャトポルクが受け取った。子にはベレスチエ公ヤロスラフ、ヴャチェスラフ、ミンスク公グレプと結婚したアナスタシヤ、シュヴァルツブルグ伯ギュンターの妻となった娘がいた。教会への寛大な施しと信仰で記憶され、正教会では聖人とされている。
同じ年に亡くなった人物
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- リシルド・ド・エノー (1086年没)
- コンラート1世 (ルクセンブルク伯) (1086年没)
- Judith of Bohemia (1086年没)
- ギヨーム8世 (アキテーヌ公) (1086年没)
同じ地域に関係する人物
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- ピョートル・ヴィトゲンシュテイン (1843年没)
- ブルーノ・シュルツ (1942年没)
- カジミェシュ・トヴァルドフスキ (1938年没)
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