伝記
ムバーラク・シャーは、1378年に生まれ、1434年2月19日に殺された、北インドを支配したサイイド朝の第2代君主である。デリーのスルタンとして、1421年から1434年まで在位した。初代君主ヒズル・ハーンの子で、生まれたときの名はムバーラク・ハーンであった。ムイッズッディーン・ムバーラク・シャーを名乗った。
1421年に父が没した翌日、混乱のなかで即位した。サイイド朝は、ティムールの後継者シャー・ルフに従う立場にあり、父ヒズル・ハーンはスルタンの称号を使わなかったが、ムバーラクはスルタンと認められた。それでも、ヘラートのティムール朝から衣と天蓋を授けられており、臣従の関係は彼の時代にも続いていたことがうかがえる。即位するとまず、地方の首長たちに領地と地位を保証して、忠誠を確保しようとした。しかし、ティムール朝の侵攻後に各地で興った地方勢力への対応に追われた。ムバーラクはドアーブ、カテヘル、アワド、グワーリヤル、バヤーナ、チャンドワール、カールピーなどの反乱を鎮め、ジャウンプルの君主イブラーヒーム・シャー・シャルキーの軍を破った。
父は前王朝トゥグルク朝の貨幣をそのまま使っていたが、ムバーラクは1429年に独自の貨幣を鋳造した。さらに、父が服属していた宗主国ティムール朝からの独立を宣言した。これがシャー・ルフの怒りを買い、討伐を受けたが、撃退して独立を明らかにした。ただ、このことは、ティムール朝の後援を得られなくなったことも意味していた。ティムール朝は、パンジャーブからインダス川の向こうまで襲撃し、ムバーラクはそれに備えてラホールに城壁を築いた。最大の脅威は、パンジャーブのコーカル族の首長ジャスラトであった。ジャスラトはデリー・スルタン朝の広大な領土を奪い、1431年にはデリーをうかがうまでになったが、ムバーラクが大軍を率いて出陣すると退いた。1433年には、ヤムナー川のほとりに、ムバーラクアーバードの町を築いた。
後援を失ったことは、王朝内部での権力闘争を引き起こした。もともとデリー周辺を支配するのがやっとで、君主の力が弱かったムバーラクには、この闘争を抑えることができなかった。1434年、宰相サルヴァル・アルムルクの手により殺されたとされる。カールピーへ向かう途中の陰謀で殺されたともいわれる。ムバーラクには息子がなく、貴族たちによって、甥のムハンマド・シャーが王位に就いた。
同じ年に亡くなった人物
- ユーリー・ドミトリエヴィチ (1434年没)
- ベルンハルト1世 (ブラウンシュヴァイク=リューネブルク公) (1434年没)
- Enrique de Villena (1434年)
- アレクサンドラ・アルギルダイテ (1434年没)
- ルイ3世・ダンジュー (1434年没)
同じ地域に関係する人物
- チャンドラ・シェーカル (2007年没)
- Mohan Rakesh (1972年没)
- サアーダト・アリー・ハーン (1739年没)
- モハメド・ヤクブ・ハーン (1923年没)
- サンジャイ・ガーンディー (1980年没)