伝記
ジョン・オブ・ランカスターは、1389年6月20日に生まれ、1435年9月14日にルーアンで没した、ベッドフォード公爵である。イングランドのランカスター朝の王族で、のちの国王ヘンリー4世と妻メアリー・ド・ブーンの三男にあたる。兄にヘンリー5世とクラレンス公トマス、弟にグロスター公ハンフリーがいる。
父が即位した1399年よりあとにガーター騎士団の騎士に叙せられ、1414年5月16日に一代限りのベッドフォード公爵に叙された。同年11月24日には世襲貴族のリッチモンド伯爵にもなった。若いころから戦いに加わり、1405年に貴族たちが父に反乱を起こすと、父の軍に参加した。1415年からは、イングランド軍が占領したフランスの防衛を任された。1416年5月には神聖ローマ皇帝ジギスムントの出迎え役の1人となり、8月にはイングランド海軍の指揮を任されて、フランス艦隊に勝ち、アルフルールの救援に成功した。
1422年に兄が亡くなると、遺言によって、ベッドフォード公は幼い甥ヘンリー6世のフランス摂政となり、占領地の行政を担い、弟グロスター公がイングランド国内の行政を担うことになった。議会はベッドフォード公を護国卿に指名し、グロスター公はその不在時の代理とした。1423年には、ブルゴーニュ派との同盟を強めるため、ブルゴーニュ公フィリップ3世(善良公)の妹アンヌと結婚した。1424年のヴェルヌイユの戦いでは自ら指揮をとり、シャルル7世が雇ったスコットランドなどの傭兵軍団を主力とするフランス軍を破ったが、資金が足りず、勝利を生かせなかった。フランスで孤軍奮闘の状態であり、同盟者の善良公はシャルル7世の勢力との戦いに関心が薄く、グロスター公も消極的だった。1425年には、グロスター公が妻のエノー女伯ジャクリーヌの権利を求めて進軍し、善良公との対立を招いた。1427年には、グロスター公とウィンチェスター司教ヘンリー・ボーフォートの対立を仲裁するため急に帰国した。
1428年には、前線の膠着のなか、主戦派の突き上げもあって、オルレアンの包囲を決めた。しかし、同年11月にソールズベリー伯が戦死し、1429年5月にはジャンヌ・ダルクの率いるフランス軍にトゥーレル要塞を落とされ、オルレアンは解放された。6月にパテーの戦いでも敗れ、7月にはシャルル7世がランスで戴冠した。ベッドフォード公はパリの防衛を固め、9月のパリ包囲戦でフランス軍を退けた。1430年5月23日にブルゴーニュ軍がジャンヌを捕らえると、ピエール・コーションを通じて身柄を買い受け、宗教裁判に引き渡した。1431年5月29日にジャンヌが世俗の裁判権に返還されると、ベッドフォード公は重ねての世俗裁判を行わず、翌30日に火刑に処した。同年12月17日にはヘンリー6世をパリで戴冠させた。
1432年にはシャルトルを奪還され、11月に妻アンヌを失った。1433年にサン=ポル伯の娘ジャケットと再婚したが、2度の結婚で子は得られなかった。1434年にはノルマンディーで重税に耐えかねた蜂起が起こった。グロスター公からも責任を追及され、1435年9月14日、失意のうちに46歳で没した。その1週間後に善良公とシャルル7世がアラスの和約を結び、1436年4月にパリが陥落した。
同じ年に亡くなった人物
- ジョヴァンナ2世 (ナポリ女王) (1435年没)
- ヘルマン2世 (ツェリェ伯) (1435年没)
- レオノール・デ・アルブルケルケ (1435年没)
- ジーギマンタス・カリブタイティス (1435年没)
- ヴィルヘルム3世 (バイエルン公) (1435年没)
同じ地域に関係する人物
- ロバート・クレイマー (1999年没)
- グウェン・ジョン (1939年没)
- ジャンヌ・ダルク (1431年没)
- アルマン・サラクルー (1989年没)
- フリードリヒ・カール・フォン・プロイセン (1893-1917) (1917年没)