HISTORICAL PERSON · 1437年没

キャサリン・オブ・ヴァロワ

イングランド王ヘンリー5世の王妃でヘンリー6世の母。夫の死後は侍従オウエン・テューダーと再婚し、その孫が後のヘンリー7世としてテューダー朝を開いた。

生涯
1437年没
死亡地
イングランド王国(サザーク区 / バーモンドジー修道院)
出生地
フランス共和国(サン=ポール館)
出典
世界地図
イングランド王国(サザーク区)

伝記

キャサリン・オブ・ヴァロワは、1401年10月27日にパリのサン・ポル館で生まれた。フランス名はカトリーヌ・ド・ヴァロワという。フランス王シャルル6世と王妃イザボー・ド・バヴィエールの末娘で、姉にイングランド王リチャード2世の妃となったイザベル、兄にギュイエンヌ公ルイ、弟にのちのフランス王シャルル7世がいる。生まれたとき、父はすでに1392年から繰り返し狂気の発作に襲われ、政務から遠ざかっていた。幼いころ、ポワシーのサン・ルイ修道院にいた姉マリーのもとへ送られ、教育を整えた。1歳半のときに従兄のシャルル・ド・ブルボンと婚約したが、この話はまもなく取りやめになった。

イングランドとの縁談は、1408年から持ち出された。姉イザベルが命からがらフランスへ逃げ帰ったため、フランス側は強く反発した。1409年の協議で、初めてキャサリンの名が挙がったが、成果はなかった。ヘンリー5世の即位後に交渉はより本格化したが、イングランド側は持参金200万クラウンと、ノルマンディー、トゥーレーヌ、アンジュー、ギュイエンヌの領土を求めた。フランス王はこれを退け、交渉は1415年3月に決裂した。同年8月、ヘンリー5世はノルマンディーに上陸してアルフルールを攻め落とし、10月のアジャンクールの戦いでフランスに大勝して、あらためて王位継承権とキャサリンとの結婚を求めた。内乱のフランスで争うアルマニャック派とブルゴーニュ派はともにイングランドの援助を求め、ヘンリー5世は領土を広げていった。1419年にはムランで母イザボーとブルゴーニュ公に付き添われたキャサリンと初めて会い、その美しさに感銘を受けたようである。

1420年5月のトロワ条約でフランスは条件を受け入れ、6月に2人はトロワのサン・ジャン教会で結婚した。翌1421年2月に、キャサリンはイングランドへ渡り、ウェストミンスター寺院で戴冠式を行い、国民に大歓迎された。3月にはフランスに残っていたヘンリー5世の弟クラレンス公トマスがボージェの戦いで戦死し、ヘンリー5世は身重のキャサリンを残して6月にフランスへ再遠征した。キャサリンはウィンザー城で王子ヘンリー、のちのヘンリー6世を産んだ。1422年8月、ヘンリー5世はモー包囲戦で罹った赤痢で亡くなり、結婚から2年余りでキャサリンは未亡人となった。シャルル6世もその2か月足らずのうちに亡くなった。9月の議会の開会式には、幼いヘンリー6世を膝に乗せて出席した。1430年ごろまで息子を補佐したとされるが、政治の実権は握らなかった。

1428年から1432年の間に、摂政たちの禁止にもかかわらず、キャサリンは秘書官オウエン・テューダーと密かに結婚した。2人の間には、エドマンド、ジャスパーら3男1女が生まれた。関係が世に知られると、オウエンは投獄され、子どもたちと引き離されたキャサリンは、サザークのバーモンジー修道院に幽閉され、1437年1月3日に35歳で亡くなった。エドマンドとジャスパーは、異父兄ヘンリー6世に引き立てられて、それぞれリッチモンド伯とペンブルック伯となり、末のオウエンは僧侶になった。エドマンドの息子ヘンリーが、のちのヘンリー7世である。

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