伝記
ジェームズ1世は、1394年7月ごろ、ダンファームリン修道院でスコットランド王ロバート3世と王妃アナベラ・ドラモンドの三男として生まれたとされる。母は1401年に亡くなり、翌1402年には兄の王子デイヴィッドが、叔父のオールバニ公ロバートのもとで幽閉中に原因不明の死を遂げた。この死はオールバニ公による暗殺ではないかと疑われた。次兄も早世していたため、ジェームズは王位継承者となり、1404年12月にロスシー公・キャリック伯に叙された。
父王は息子の身を案じ、1406年、11歳のジェームズを同盟国フランスの宮廷へ送ることにした。護衛が襲撃されてバス・ロック城に避難する出来事もあったが、3月に船でフランスへ向かう途中、フランスと敵対していたイングランド勢に拿捕され、イングランド王ヘンリー4世のもとへ送られた。父王は4月に没し、名目上のスコットランド王となった少年は、その後18年間を帰国できずに過ごすことになる。摂政となったオールバニ公は身代金をなかなか払おうとしなかった。息子マードックが1402年に捕虜となった際には捕虜交換で帰還させていたのとは対照的だった。
ジェームズはロンドンに近いウィンザー城に留め置かれ、教育を受けた。ヘンリー5世の時代には厚遇され、1420年から1421年にはフランスでのヘンリー5世の軍事行動に加わった。ヘンリー6世が即位するとイングランドはスコットランドへの配慮が必要となり、さらに厚遇されるようになった。この間、ヘンリー5世の従妹ジョウン・ボーフォートと恋に落ち、恋文代わりに詩「王の献辞」を贈った。この詩は初期スコットランド文学の代表的作品とされる。身代金4万ポンドが支払われ、1424年2月にサザーク大聖堂でジョウンと結婚、5月に帰国してスクーン修道院で戴冠した。2人の間には8人の子が生まれ、長女マーガレットは後のフランス王ルイ11世に嫁いだ。
帰国したジェームズは王権の回復を急ぎ、1425年5月、摂政だったオールバニ公マードックと2人の息子をスターリングで処刑した。金融や法律の改革を進め、議会をイングランド風に改めようとし、1428年にはフランスとの古い同盟を再開した。翌年にはジャンヌ・ダルクのもとで戦ったスコットランド兵も多かった。スポーツや文学、音楽を好む一方、法と秩序を臣下に強く求め、ときには選択的に適用したという。1428年にインヴァネスの議会でアイルズ卿アレグザンダーを拘束し、1431年にダグラス伯、1434年にマーチ伯も捕らえた。身代金の支払いは貴族の負担となり、人質の問題は放置され、集めた金はリンリスゴー宮殿の建設などに回されたとされる。こうした政策は効果的だった反面、多くの反感を買い、祖父ロバート2世の最初の結婚の手続きを疑って王位継承権そのものを問う声も強まった。1436年8月にはイングランド支配下のロクスバラ城の包囲に失敗した。
1437年2月20日から21日にかけての夜、滞在していたパースの修道院で暗殺された。王妃ジョウンは負傷しながらも逃れ、王位はジェームズ2世が継いだ。襲撃はロバート・グラハム卿らの一団によるとされるが、叔父アサル伯ウォルターが率いたともいわれる。民衆の支持は得られず、関与者は次々と捕らえられ、3月にウォルターらが、4月にグラハム卿が処刑された。
同じ年に亡くなった人物
- ジョーン・オブ・ナヴァール (1437年没)
- キャサリン・オブ・ヴァロワ (1437年没)
- ジギスムント (神聖ローマ皇帝) (1437年没)
- ニッコロ・ニッコリ (1437年没)
同じ地域に関係する人物
- エフィー・グレイ (1897年没)
- Fred Martin (2013年没)
- ケネス1世 (スコットランド王) (858年没)
- アナベラ・ドラモンド (1401年没)
- ケネス3世 (1005年没)