HISTORICAL PERSON · 1963年没

リー・ハーヴェイ・オズワルド

ケネディ大統領暗殺事件の実行犯とされる人物。逮捕の2日後にジャック・ルビーに射殺された。偽名も使っていた。

生涯
1963年没
死亡地
アメリカ合衆国(テキサス州 / パークランド記念病院)
出生地
アメリカ合衆国(ニューオーリンズ)
出典
世界地図
アメリカ合衆国(テキサス州)

伝記

リー・ハーヴェイ・オズワルドは、1939年10月18日にルイジアナ州ニューオーリンズで生まれ、アメリカ合衆国のケネディ大統領暗殺事件の実行犯とされている人物である。父は彼が生まれる前に亡くなっており、幼児期から思春期にかけては、おじのチャールズ・マレットに生活を見てもらっていた。兄弟とともに母に育てられ、成績は平均的で、不登校の経験もある。兄ロバートが海兵隊に入った時には、オズワルドは民間航空パトロールに参加しており、この頃からロシアの新聞を購読し始めた。

十七歳で海兵隊に入隊し、公務の一環としてロシア語を専門的に学んだ。1957年から翌年にかけては、日本の厚木基地で航空管制官を務めた。同僚の殺害容疑を掛けられたことがあるほか、銃の不法所持と発射の罪で軍法会議により有罪となった。のちにソ連へ亡命した際、厚木で得た偵察機の機密情報を提供し、それが1960年5月にソ連上空で偵察機が撃墜された件につながったのではないかとする説がある。射撃の腕についても議論があり、1956年12月に一級射手の資格に必要な得点を辛うじて上回ったものの、1959年5月には二級射手の資格には届いたが、一級には程遠い成績だった。このため、一部の懐疑論者は、移動する大統領を正確かつ素早く狙撃したという見方に疑問を呈している。

除隊後の1959年、フィンランドでソ連の旅行ビザを取得し、ソ連に旅行してそのまま亡命した。アメリカのスパイと疑われ追放されるのを避けようとして、自殺を試みたという。退院後、モスクワのアメリカ大使館を訪れて、マルクス主義者だと主張し、市民権を放棄しようとしたが、説得されて帰った。その後ソ連当局から一年単位のビザを与えられ、ミンスクでの生活を許されて、テレビ工場で働いた。ここでソ連人女性のマリーナと結婚し、二人の娘をもうけた。やがて考えを変え、1962年に妻子を連れて帰国し、ダラス近郊のフォートワースで溶接工や写真現像印刷工など職を転々とした。1963年3月には偽名でカルカノのカービン銃を買い、4月にはエドウィン・ウォーカー将軍の自宅を狙撃したが、これはケネディ暗殺後に明らかになった。

ニューオーリンズでは、フィデル・カストロの支援団体の支部を設立したと自称したが、住所も支部長名も架空だった。ビラ配りで反カストロ派とトラブルになって逮捕され、FBIの捜査官との面会を要求し、テレビやラジオにも出て、自分は共産主義者でなくマルクス主義者だと主張した。一方で、反カストロ派の活動家に接触し、ゲリラ戦術に使える海兵隊のマニュアルを提供するなど、矛盾した行動も見せた。1963年9月にはメキシコへ行き、キューバやソ連の大使館を訪れた。
1963年10月19日、テキサス教科書倉庫に就職した。翌11月22日、ケネディ大統領がダラスを訪れ、ウォーレン委員会の報告書によれば、午後0時30分ごろ、オズワルドが働く倉庫ビルの六階の窓から狙撃して暗殺した。その後、職務質問をしたティピット巡査を殺害し、テキサス劇場で警察官殺害の容疑で逮捕された。逮捕直後から記者団に対し、自分は嵌められた、身代わりだと主張し、取調べ中に警官に殴られたと語った。ダラス警察の本部長は、彼が犯行を全面否認しているが、間違いなく犯人だと信じていると述べている。逮捕から二日後の11月24日、郡刑務所へ移送される直前に、地下駐車場でジャック・ルビーに撃たれ、パークランド記念病院で亡くなった。ウォーレン委員会は単独犯と結論したが、身代わり説や共犯説は今も根強い。

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