伝記
ゴ・ディン・ジエムは、1901年1月3日に生まれたベトナムの政治家で、ベトナム共和国(南ベトナム)の初代大統領である。熱心なカトリック教徒で、霊名はジャン=バティスト(洗礼者ヨハネ)といった。ベトナム北中部クアンビン省の出身の一族で、阮朝宮廷の高官だったゴ・ディン・カの三男として生まれた。一族は17世紀にベトナムで最も早くカトリックに改宗した家の一つとされ、1880年には、反カトリックの暴動で一族の100人以上が教会で焼き殺されたと伝えられる。フランス語で教育を受け、兄のゴ・ディン・トゥックのように司祭になることも考えたが、結局は官吏の道に進んだ。1929年にビントゥアン省の長官となり、1933年にバオ・ダイ帝の下で阮朝宮廷の内相に就いたが、フランスの過酷な植民地支配に不満を持ち、まもなく辞任して皇帝をフランスの道具だと公に非難した。
1940年にフランスがドイツに占領され、親独のヴィシー政権ができた後もその地位に留まったとする記述がある。1945年3月に仏印処理で日本軍が実権を握り、阮朝宮廷の新内閣の組閣を請われたが、これを断って出国した。日本の敗戦後、ベトナムがフランスの植民地下に戻っても帰国せず、日本、アメリカ、ヨーロッパで亡命生活を送った。ベトナム民族主義と反共産主義を掲げ、フランスの人格主義の哲学と儒教を混ぜ合わせた独自の政治理論を掲げ、これを支えるためにカンラオ党を結成した。1954年のジュネーヴ協定の直前にサイゴンに帰国し、フランスが急遽建国したベトナム国の首相となった。
翌1955年、国民投票で人気のなかったバオ・ダイを退位に追い込み、10月28日にベトナム共和国を樹立して初代大統領となった。ただしこの選挙結果は捏造された疑いが濃いとされる。反共産主義者の彼は、東南アジアでの共産主義の拡大を懸念するアメリカの支援を受け、ジュネーヴ協定に基づく南北統一選挙を拒否した。弟のゴ・ディン・ヌーを大統領顧問として秘密警察と軍の特殊部隊を掌握させ、国内の共産主義者ら反政府分子を厳しく弾圧した。1962年には戦略村計画を進めた。1961年にケネディ大統領がアメリカ軍の派遣を決めたのち、ジョンソン副大統領は報告書で、ジエムは国民から乖離し、本人以上に好ましくない人物に取り巻かれていると忠告した。
フエ出身で首都サイゴンに政治的基盤がなく、熱心なカトリック教徒だったため、カトリック信者の多いサイゴンの有力者たちを優遇した。これに反発した仏教徒の反政府運動に対し、1963年に戒厳令を布告して寺院を襲撃し、僧たちを逮捕した。5月のフエのデモでは警察が発砲して死者が出て、6月には僧ティック・クアン・ドックが焼身自殺し、その姿は世界に報じられた。ヌーの妻マダム・ヌーの「人間バーベキュー」という発言は世界的な批判を浴びた。ケネディがヌーの更迭を求めても拒否され、両国の関係は悪化した。1963年11月2日、アメリカの黙認のもとでズオン・バン・ミン将軍らがクーデターを起こし、ジエムは逃げ込んだ教会の前の装甲兵員輸送車の中で、ヌーとともに頭部を撃たれて殺害された。生涯独身であった。
同じ年に亡くなった人物
- ジャック・アダマール (1963年没)
- ヴァシル・バルヴィンスキー (1963年没)
- ジャック・カーソン (1963年没)
- ヤコブ・ゲーゼ (1963年没)
- ウーゴ・チェルレッティ (1963年没)
同じ地域に関係する人物
- ファン・ヴァン・カイ (2018年没)
- チン・コン・ソン (2001年没)
- アンリ・ドルレアン (1867-1901) (1901年没)
- ゴ・ディン・ヌー (1963年没)
- 成泰帝 (1954年没)