HISTORICAL PERSON · 1963年没

ヨハネ23世 (ローマ教皇)

ローマ教皇。1958年に76歳で選ばれて周囲を驚かせ、第2バチカン公会議を招集して開会させた。教会一致の精神で他教会や他宗教との対話に積極的だった。

生涯
1963年没
死亡地
バチカン(ローマ県 / バチカン宮殿)
出生地
イタリア共和国(ソット・イル・モンテ・ジョヴァンニ・ヴェンティトレージモ)
出典
世界地図
バチカン(ローマ県)

伝記

ヨハネ23世、本名アンジェロ・ジュゼッペ・ロンカッリは、1881年11月25日にイタリア北部ベルガモ近郊のソット・イル・モンテで、小作農の家に生まれた。父はジョヴァンニ・バッティスタ、母はマリアンナ・マッツォーラで、大家族の3番目の子である。貴族の家系に生まれた前任のピウス12世とは対照的な出自であった。地域の信仰心の篤い家庭と教区に育ち、ベルガモの神学校に入ると、霊的な日記をつけ始め、これは1895年から1961年までの記録としてのちに知られる。1897年には在俗フランシスコ会の会則を受け入れた。教区の奨学金を得て、1901年から1905年にかけてローマの神学校で学び、1904年に司祭に叙階された(1905年とする記述もある)。

ベルガモ司教の秘書となって社会問題への向き合い方に影響を受け、神学校で教えながら、聖カルロ・ボロメオの生涯と著作を研究した。その文書の編集は長年にわたり、最後の巻は1957年に出された。この研究を通じて、トレント公会議が反プロテスタント的というより改革的だったことを理解したという。1915年にイタリアが第一次世界大戦に参戦すると、衛生兵の軍曹と従軍司祭として従軍した。1921年には教皇庁の宣教事業の評議会のイタリア会長となり、各地の宣教の状況を知った。1925年にブルガリアへの教皇使節に任命されて司教となり、「従順と平和」を座右の銘に選んだ。これを皮切りに、トルコ、ギリシャという、カトリックが多数でない国々で職務を歴任し、第二次世界大戦中はユダヤ人の保護にも関わったとされる。1944年にはパリに派遣され、親独政権に協力した司祭たちを民衆が追及するという難しい状況に、誠意をもって対処した。1953年に枢機卿に任命され、ヴェネツィアの総大司教となった。

1958年、ピウス12世の死去に伴うコンクラーヴェで、有力候補とは思われていなかった76歳のロンカッリが教皇に選ばれ、周囲を驚かせた。これは過去200年の選出時の年齢として最高齢で、本人も驚いたという。ヨハネ23世を名乗り、高齢のため短期の「つなぎの教皇」と見る向きもあったが、飾らない態度と親しみやすさ、ユーモアで温厚な印象をつくった。厳格な表情を崩さなかった前任者とは対照的であった。在位は5年に満たなかったが、8つの回勅を書き、その主なものに『マーテル・エト・マジストラ』と『パーチェム・イン・テリス』がある。

対話を重視し、教会一致への情熱を示した。1500年代以来初めて、イングランド国教会の大主教をバチカンに迎え、正教会にも公式メッセージを送った。共産主義にも対立姿勢を表立って示さず、1962年のキューバ危機では米ソ双方の仲介に尽力し、10月25日には戦争回避を訴えるラジオ演説を行った。翌日、ソ連共産党機関紙『プラウダ』はこれを好意的に報じ、その後、核ミサイルが撤去されたという。誰も予期しなかった公会議の開催を指示して準備委員会を発足させ、1962年10月に第2バチカン公会議の開会にこぎつけたが、すでに胃癌に侵されていた。1963年6月3日、会議の終了を待たずに死去し、ソ連の最高指導者フルシチョフから異例の弔電が送られた。2000年9月3日にヨハネ・パウロ2世によって列福され、2014年4月27日には教皇フランシスコにより、ヨハネ・パウロ2世とともに列聖された。その親しみやすい司牧から「善良な教皇」と呼ばれる一方、公会議の召集や宗教の自由、教会一致の推進をめぐり、一部の伝統主義者からは批判も受けた。

同じ年に亡くなった人物

同じ地域に関係する人物