HISTORICAL PERSON · 1441年没

ヤン・ファン・エイク

初期フランドル派の画家で、主にブルッヘで活動した。ブルゴーニュ公フィリップ善良公に宮廷画家、外交官として仕えて高い報酬を得た。兄フーベルトの後を継ぎ、代表作『ヘントの祭壇画』を1432年に完成させた。

生涯
1441年没
死亡地
ベルギー王国(ウェスト=フランデレン州 / ブルッヘ)
出生地
ベルギー王国(マーサイク)
出典
世界地図
ベルギー王国(ウェスト=フランデレン州)

伝記

ヤン・ファン・エイクは、初期フランドル派を代表するフランドルの画家で、主にブルッヘで活動し、15世紀の北ヨーロッパでもっとも重要な画家の一人と見なされている。誕生日も生誕地も伝わっておらず、1395年頃に生まれたとされるが、多くの美術史家は1433年の『ターバンの男の肖像』の外貌から、生年を1390年に近い年と考えている。名の「ファン・エイク」は「エイク出身の」を意味し、リエージュ教区のマースエイクの生まれとする説が有力である。後に娘のレフィーネがマースエイクで修道女になったことも、この説の裏づけとされる。

現存する最古の記録は、1422年から1424年にかけてバイエルン公ヨハン3世の宮廷が支払った、「優れた画家ヤン」宛ての報酬である。当時すでに一人か二人の助手を抱える工房を営み、近侍の地位も兼ねてハーグのビネンホフ城の装飾に従事していた。ヨハン3世の死後、1425年にブルゴーニュ公フィリップ3世の宮廷に迎えられた。当初はリールに住んだが、一年後にはブルッヘへ移り、1441年に亡くなるまで同地で暮らした。トゥルネーの画家ギルドの上級メンバーにも迎えられ、ロベルト・カンピンやロヒール・ファン・デル・ウェイデンらと親交を持ったとされる。宮廷画家であると同時に外交官も務め、1428年から1429年には公とイザベル・ド・ポルテュガルの婚儀をまとめる使節団に加わって、イザベルの肖像画を2点描いている。

兄フーベルトも画家で、両者とも同じ場所の生まれと考えられている。もう一人の兄弟ランベルトもブルゴーニュ宮廷の記録に名が見え、ブルッヘの工房を監督していたとされる。フーベルトとの合作である『ヘントの祭壇画』は、1420年頃に着手したフーベルトが1426年に没したため、ヤンが引き継いで1432年頃に完成させた。富裕な商人ヨドクス・フィエトとその夫人の依頼によるもので、聖バーフ大聖堂に納められ、「北ヨーロッパ写実主義の最終到達点」とまで評された。イタリアの初期ルネサンスが古代の理想化を目指したのに対し、初期フランドル派は自然そのものを正確に観察して描くことを追求した。作品に署名と制作年を書き入れたことも、当時としては例外的だった。

フィリップ3世からの評価は高く、報酬は並外れて多かった。年収は数年のうちに二度も倍に引き上げられ、1435年には公が報酬の未払いを財務官に叱責し、その「芸術と学識」に替わる者はいないと述べた記録がある。公はヤンの子の名付け親にもなり、没後には未亡人を援助し、娘の一人が修道院に入る費用も負担した。1434年から1436年が最盛期とされ、『宰相ロランの聖母』『ルッカの聖母』『ファン・デル・パーレの聖母子』などが描かれ、この頃にかなり年下のマルガレーテと結婚した。モットー「我に能う限り」は、1433年の『ターバンの男の肖像』に初めて見られる。

1441年7月9日にブルッヘで没し、聖ドナトゥス教会に葬られた。未完成の作品は工房の職人が引き継いで完成させた。1454年にはイタリアの人文学者バルトロメオ・ファツィオが『偉人伝』でヤンを「第一級の画家」と紹介し、当代最高の芸術家の一人に数えている。ファツィオは、ヤンが古典、とくに大プリニウスの美術論に通じた教養人だったとも記す。『アルノルフィーニ夫妻像』のもとの額にオウィディウスの語句が刻まれていたことや、多くの作品にラテン文字の銘が見られることも、その教養を裏づけるとされる。その油彩技法の刷新は、後にヴァザーリの著作によって伝説となり、油絵具の発明者とまで語られるようになった。

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