伝記
ヨハンは、プファルツ=ノイマルクト公で、プファルツ=ノイマルクト家の祖である。1383年に、ノイブルク・フォルム・ヴァルトで生まれた。プファルツ選帝侯でローマ王のループレヒトと、ニュルンベルク城伯フリードリヒ5世の娘エリーザベトの三男で、四男とする説もある。選帝侯ルートヴィヒ3世の弟にあたり、シュテファンとオットー1世の兄でもある。北欧3国の王となったクリストファの父である。
1404年に上プファルツの統治を任され、このとき、「バイエルン公」の称号を用いるようになった。1407年には、コペンハーゲンで、ポンメルン=シュトルプ公ヴラティスラフ7世の娘カタリーナと結婚した。カタリーナはデンマーク、ノルウェー、スウェーデンの王エーリク・ア・ポンメルンの妹で、この結婚は、ヨハンが上プファルツに修道院を建てることを条件に実現した。これがグナーデンベルク修道院の創建につながり、カタリーナの持参金は4万フロリンだった。
1410年に父が亡くなると、領地は4人の息子たちで分けられ、ヨハンは上プファルツの領地を受け継いだが、アンベルクの町と選帝侯の特権は含まれなかった。当時、ノイマルクトは経済的な繁栄を迎えており、ヨハンはここを新しい居城と定めて、城や教会を建てた。宮廷がノイマルクトへ移ったことで、街は芸術、文化、経済、商業、建築の面で輝かしい時代を迎えた。ローマ王ジギスムントを支持し、領地を広げようとして、兄の選帝侯ルートヴィヒ3世と争った。フス戦争にも参戦し、「フス派の鞭」とも呼ばれた。もうひとつの居城だったノイブルクには、7つの塔をもつ城壁を築いて備え、1418年のフス派の侵攻は失敗に終わった。ノイマルクトでは、1418年にヨハネス教会を建て、市庁舎は1410年ごろに建てた。妻の求めで、南ドイツで最初のブリギッタ会の修道女の修道院である、グナーデンベルク修道院に寄進した。
カタリーナは1426年に亡くなり、ヨハンは、同年(1428年とも)、上バイエルン=ミュンヘン公エルンストの娘ベアトリクスと再婚したが、子はなかった。カタリーナとの間には7人の子が生まれたが、成長したのは末子のクリストフだけだった。兄のルートヴィヒ3世が1436年に亡くなると、弟のオットー1世が、幼い甥のルートヴィヒ4世の後見をすることを認めたが、その代わり、甥の上プファルツの領地は自分が治めることにした。その結果、1437年から1442年まで、ヨハンの手に上プファルツ全域があり、ルートヴィヒ4世が成人すると手放した。エーリク・ア・ポンメルンが貴族の専横を抑えられずに退位した後、貴族たちは、エーリクの甥にあたるヨハンの息子クリストフの即位を求めた。クリストフ(クリストファ)は、1440年にデンマーク、1441年にスウェーデン、1442年にノルウェーの王に即位した。ヨハンは翌1443年3月14日に、カストル修道院で亡くなった。遺体は城の聖ゲオルク教会に、赤い大理石の簡素な墓に葬られたが、墓は1965年の教会の改修の際に壊され、いまは断片が残るだけである。クリストフは、1448年に亡くなるまで、3つの北欧の王国を治めた。
同じ年に亡くなった人物
- スチェパン・トヴルトコ2世 (1443年)
- ラ・イル (1443年没)
- ニッコロ・アルベルガティ (1443年)
- フェルナンド聖王子 (1443年没)
- 足利義勝 (1443年没)
同じ地域に関係する人物
- オイゲン・ロート (1976年没)
- ヴィルヘルム・バッツ (1988年没)
- ルート・ロイヴェリク (2016年没)
- ピウス・アウグスト・イン・バイエルン (1837年没)
- ヘルムート・ライマン (1988年没)