伝記
ラ・イルは、本名をエティエンヌ・ド・ヴィニョルといい、百年戦争の後期に活躍したフランスの軍人である。ジャンヌ・ダルクの戦友としても知られる。ガスコーニュの小貴族の出で、1390年ごろ(1380年ごろともいう)に、ランド地方のプレシャックで生まれたとされるが、生年も生地も確かではない。最初の軍歴は、アルマニャック伯ベルナール7世の軍に加わったことである。1411年にはピカルディーへ侵攻した。
1418年にアルマニャック派として王太子シャルルの軍に加わり、ブルゴーニュ派との戦いで頭角を現した。クシー城の戦いで武名をあげ、このとき、「王に非ず公に非ず、侯にも非ず、伯にも非ず、我はクシー城主なり」と言ったといわれる。その後、バル枢機卿ルイ1世に雇われ、ロレーヌなどで戦った。1421年のボージェの戦いにも加わり、宿の暖炉が足の上に落ちてきて片足を骨折し、後遺症で足を引きずるようになったが、傭兵生活の妨げにはならなかったらしい。1422年にロレーヌ公がブルゴーニュ派とイングランドに味方すると、部下とともにその地方の18の村を焼いた。1427年にイングランド軍がモンタルジを包囲すると、ジャン・ド・デュノワらとともにこれを破り、解放した。
1428年10月25日、オルレアンを守る援軍として、デュノワと同郷のジャン・ポトン・ド・ザントライユらとともに同地へ駆けつけ、目覚ましい戦功をあげた。シャルル7世から軍資金を引き出すために、オルレアンとシノンの宮廷を何度も往復した。1429年2月のニシンの戦いに敗れてオルレアンを離れたが、ジャンヌ・ダルクが来ると、最も忠実な戦友のひとりになった。ジャンヌの出発にはブロワから付き従い、尊敬のあまり、悪態をついたり神を罵ったりするのをやめたという。もともと教会や信仰にまるで関心がなかったが、ジャンヌが厳しく告解を迫るので、ついに折れて告解したといい、部下の多くも倣ったようである。ジャンヌとともに戦って、イングランド軍のオルレアン包囲を破り、アランソン公ジャン2世、ジル・ド・レらと合流してロワール川沿いを進んだ。ジャルジョーとパテーの戦いで大きな働きを見せ、この功でヴェルマンドワの代官の地位を与えられた。
1431年、ルーアンへジャンヌを奪還に向かったが失敗し、ジャンヌが火刑台に上ったときは、自身もイングランド軍の捕虜になっていた。シャルル7世が身代金の一部を負担して解放されたともいわれ、翌年ドゥルダンの牢から脱出したともいう。解放後は、リッシュモン大元帥の主要な武将として活躍し、1435年にはジェルブロワの戦いで勝利をあげた。この勝利で、1438年にはノルマンディー総司令官と呼ばれた。一方で略奪や残酷な行いを重ね、野戦ではリッシュモンの指揮下でこそ活躍したが、離れると敗れるのが常だった。1435年に単独でトーマス・スケールズの軍に、1436年にもジョン・タルボットにザントライユとともに敗れ、1437年には陣営を奇襲され、ザントライユが捕らえられて、かろうじて逃げ延びた。1442年のガスコーニュの遠征にも加わり、生まれ故郷に近いタルタスの奪還から始めた。その数か月後の1443年1月11日、冬営していたモントーバンで、負傷がもとで亡くなった。
「ラ・イル」というあだ名は、古いフランス語で「憤怒」を意味し、彼が粗暴で怒りっぽい性格であったことに由来するといわれる。トランプのハートのジャックのモデルとして知られる。
同じ年に亡くなった人物
- 世阿弥 (1443年没)
- ニッコロ・アルベルガティ (1443年)
- 足利義勝 (1443年没)
- スチェパン・トヴルトコ2世 (1443年)
- フェルナンド聖王子 (1443年没)
同じ地域に関係する人物
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- シャルル・フリーデル (1899年没)
- マヌエル・アサーニャ (1940年没)