伝記
レオナルド・ブルーニは、イタリアのヒューマニスト、政治家、歴史家である。1370年頃、トスカーナのアレッツォに生まれた。1369年生まれともいわれる。ペトラルカと同じくアレッツォの出身であることから、レオナルド・アレティーノとも呼ばれる。家はトスカーナの出身だったが、のちにフィレンツェに移り、1416年にフィレンツェ市民となった。自らをフィレンツェ人と考えていたが、生まれは同市ではなかった。
フィレンツェでは、当時の人文主義者の中心にいた書記局長コルッチョ・サルターティのもとで学び、修辞学を身につけた。サルターティを囲む人文主義者の集まりではすでにギリシア語が教えられており、ブルーニはマヌエル・クリュソロラスら師にあたる人々とも交わった。ニッコロ・ニッコリ、ポッジョ・ブラッチョリーニ、パッラ・ストロッツィといった同世代の人文主義者とも親交を結んだ。1405年からはローマで教皇インノケンティウス7世に仕えて政治の経歴を歩み、1411年には対立教皇ヨハネス23世の随員としてコンスタンツ公会議に加わった。1415年からはフィレンツェに定住した。教皇庁にも仕えたが、それが都市の理想、あるいは都市を支配した寡頭的な有力家門の理想と自らを重ねる妨げにはならなかったとされる。
フィレンツェ共和国の書記局長には1410年に任じられたが、最初の在任は1411年までの短いもので、辞職している。1427年に再び就任し、1444年に亡くなるまで務めた。この職は、今日の外務大臣に当たるものだったという。フィレンツェの役職は任期が限られていたが、書記局長は継続して務める官吏であることによって権力を持ち、サルターティ以来、書記局長には優れた人文主義者が続いて、コジモ・デ・メディチが1434年に権力を握るまで、政治にも大きな影響を及ぼした。
当時屈指のラテン語の書き手の一人とされ、古代ギリシアの著作をラテン語に訳すことに力を注いだ。具体的にはプロコピオスの歴史書のほか、プルタルコス、クセノフォン、デモステネス、バシレイオス、ホメロス、プラトン、とりわけアリストテレスを訳している。1417年に訳したアリストテレスの『ニコマコス倫理学』は、従来のロバート・グロステストの訳と大きく異なったため論争を呼び、「最高善」をめぐる議論を引き起こして、その後の数年間にわたりイタリアの知識人の関心を集めた。この訳をめぐっては、スペインの人文主義者アルフォンソ・デ・カルタヘナとも論争している。
著作には、キケロの伝記、『フィレンツェ市民の歴史』全12巻、1434年のダンテとペトラルカの伝記、都市賛美の『フィレンツェ市頌』がある。なかでも『フィレンツェ市民の歴史』は、文書を突き合わせ、歴史を神の摂理で説明する見方から離れた点で、当時として科学的な方法を採ったと評され、1492年に印刷された。俗語で書かれた詩や短編小説、戯曲『ポリスケナ』も残した。1444年3月9日にフィレンツェで没し、サンタ・クローチェ教会に葬られた。ブルーニは、マキァヴェッリ以前のフィレンツェ人文主義の歴史叙述を代表する存在とされる。日本語訳には『ルネサンス教育論集』(2025年)があり、「教養書簡集」「学問と文才について」が収められている。
同じ年に亡くなった人物
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- 大ジュリアーノ・チェザリーニ (1444年没)
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同じ地域に関係する人物
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