伝記
ハンス・フォン・オイラー=ケルピンは、1873年2月15日、ドイツのアウクスブルクで生まれた化学者で、のちスウェーデンで活動した。父リーガス・ゲオルク・ゼバスティアンは、当時バイエルン王国の歩兵近衛連隊の大尉だった軍人で、まもなくミュンヘンへ転任し、最終的には中将になった。母はガブリエレといい、旧姓はフルトナーである。幼い頃の多くの時間を、イン河畔のヴァッサーブルクに住む祖母のもとで過ごし、この祖母から大きな影響を受けて育った。学校はアウクスブルク、ミュンヘン、ヴュルツブルク、ウルムと転々とした。バイエルンの野砲連隊で一年志願兵として勤めたのち、色彩論に関心を持ち、1891年にミュンヘンの美術アカデミーに入学して、写実的な画風で知られる画家レンバッハらに学んだ。しかし1892年には化学に転じ、ベルリン大学でエミール・フィッシャーに化学を、マックス・プランクらに物理を学んで、1895年に博士号を得た。
1899年、ストックホルムの王立大学に私講師として招かれ、ファント・ホッフの研究室にも出入りした。ファント・ホッフは、ネルンストと並んで、その科学への関心に影響を与えた一人とされる。ゲッティンゲン大学とストックホルム大学で物理化学の研究をしたのち、1906年にはストックホルム大学の一般化学および有機化学の教授となった。1902年にはスウェーデンの市民権を得たが、ドイツ国籍も保持した。第一次世界大戦では志願してドイツ軍の砲兵に加わり、1915年に航空部隊へ移って、最終的に大尉の階級に就いた。第二次世界大戦中は、ドイツ側の外交使節に関わる仕事をしていたとされる。1922年にはドイツ自然科学者アカデミー(レオポルディナ)の会員となった。1929年には、ヴァレンベリ財団とロックフェラー財団の国際教育委員会がストックホルムにビタミン研究所と生化学研究所を設立し、その所長に任命された。
1929年のノーベル化学賞は、炭水化物のアルコール発酵と酵素の役割に関する研究に対して、アーサー・ハーデンとともに贈られた。ハーデンは、ブフナーが発見した酵素チマーゼが補酵素コチマーゼとの相互作用ではじめて発酵を起こすことを見出した。オイラー=ケルピンは、物理化学の手法を用いて、糖の発酵と酵素の働きを説明した。酵素が補因子とアポ酵素からなることも発見し、この説明は、筋肉でエネルギーを供給する重要な過程の理解につながった。1931年にはニコチンアミドアデニンジヌクレオチドの構造を解明している。1941年に教職を退いてからも研究を続け、がん研究にも取り組んだ。
私生活では二度結婚した。最初の妻アストリッド・クレーヴェはスウェーデン人女性として初めて理学博士号を得た化学者で、5人の子をもうけた。1913年に男爵家の娘エリーサベト・アフ・ウッグラスと再婚し、4人の子をもうけた。最初の妻とのあいだの子のひとり、ウルフ・フォン・オイラーは生理学者となり、1970年にノーベル生理学・医学賞を受けた。1958年2月には来日し、皇居で昭和天皇に謁見した。1964年11月6日、ストックホルムで91歳で亡くなった。
同じ年に亡くなった人物
- ジョセフ・シルドクラウト (1964年没)
- パウル・フォン・レットウ=フォルベック (1964年没)
- コール・ポーター (1964年没)
- ダグラス・マッカーサー (1964年没)
- パルミーロ・トリアッティ (1964年没)
同じ地域に関係する人物
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- カタリーナ・フォン・ザクセン=ラウエンブルク (1535年没)
- ヴァルター・ゴルドン (1939年没)
- カール=グスタフ・ロスビー (1957年没)
- ベルンハルド・カールグレン (1978年没)