伝記
ダグラス・マッカーサーは、1880年1月26日にアメリカ・アーカンソー州リトルロックで生まれた陸軍軍人である。マッカーサー家はスコットランド貴族の血筋と伝えられ、祖父は1828年に少年の頃、家族に連れられてアメリカへ移民した。父アーサー・マッカーサー・ジュニアは16歳で南北戦争に従軍した根っからの軍人で、いったん除隊して法律を学んだが長続きせず、1866年に軍へ再入隊した。1875年に、ボルチモアの富裕な綿花業者の娘メアリー・ピンクニー・ハーディと結婚し、ダグラスは三男として生まれた。生後5か月で一家はニューメキシコ州の砦へ移り、1883年にそこで次男のマルコムが病死すると、母は残る息子たち、とくにダグラスを溺愛するようになった。そのため彼は、幼少期のほとんどを軍の砦の中で過ごした。1898年に米西戦争が始まると、父は准将としてフィリピンに出征し、のちに米比戦争でも活躍して、フィリピンのアメリカ軍司令官になった。これが、マッカーサー家とフィリピンの深い縁の始まりとなった。
ウェストポイントの陸軍士官学校を目指した彼は、1896年に西テキサス士官学校を卒業したが、受験に必要な有力者の推薦状が得られず、母とともに地元のミルウォーキーに戻った。母が伝手を頼って手紙を書き、下院議員の推薦を得ると、高校で1年半、受験勉強に励んだ。「周到な準備こそ成功と勝利のカギ」という教訓を学んだという。1899年6月に750点満点中700点でトップ入学した。入学後、母は学校近くのホテルに移り住んで息子の生活に目を光らせ、卒業まで離れなかったため、「士官学校の歴史で初めて母親と一緒に卒業した」とからかわれた。当時の学校は上級生による下級生のしごきが横行しており、父が有名で母が近くに常駐していた彼は、とくに念入りにいじめられて、失神した。のちにいじめによる死者が出て軍法会議が開かれた際、彼は証人に呼ばれ、すでに罪を認めた上級生の名前だけを証言し、ほかの証言は拒否した。この対応で多くの生徒の信頼を得たという。
在学中は成績抜群で、4年のうち3年は首位だった。最も好きなフットボールの部には痩せた体格で入れそうになく、自ら野球部を作り、打撃は苦手だったが、選球眼とセーフティーバントで高い出塁率を誇り、「不退転のダグ」と呼ばれた。1903年6月、94名の首席で卒業し、その得点率98.14パーセントは、それ以前に彼を上回った者が2人しかいないほどの成績だった。少尉に任官し、エリートとされた工兵隊を志願して、フィリピンに配属された。1905年には、日露戦争の観戦任務で駐日大使館付き武官となった父の副官として東京に勤務し、その後8か月かけて中国や東南アジアを経由してインドまで各国の軍事基地を視察した。日本では東郷平八郎や乃木希典ら日露戦争の司令官たちと面談し、感銘を受けたとしている。
1906年9月にはセオドア・ルーズベルトの要請で大統領軍事顧問の補佐官になり、「君は素晴らしい外交官だ」と称賛された。のちに第一次世界大戦と太平洋戦争に従軍し、太平洋戦争の序盤にはフィリピンで日本軍に敗れてオーストラリアに撤退したが、「私は必ず帰ってくる」の約束を果たしてフィリピンを奪還した。終戦後は連合国軍最高司令官として日本に進駐し、日本国憲法の起草にも大きな影響を及ぼした。朝鮮戦争では仁川上陸作戦を敢行したが、核兵器の使用や中国本土への攻撃を主張してトルーマン大統領の怒りを買い、全軍職から解任された。大統領を目指したが実現せず、1964年4月5日にワシントンで亡くなった。
同じ年に亡くなった人物
- ヤン・デ・フリース (神話学者) (1964年没)
- ハリデ・エディプ・アドゥヴァル (1964年没)
- アクセル (デンマーク王子) (1964年没)
- エドワード・ヴァン・スローン (1964年没)
- ロスコー・パウンド (1964年没)
同じ地域に関係する人物
- アーサー・オーカン (1980年没)
- Alice Cunningham Fletcher (1923年没)
- オーガスタス・H・ガーランド (1899年没)
- フレデリック・ダグラス (1895年没)
- ベティ・フリーダン (2006年没)